大澤真幸 戦後の思想空間 [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)] 目 次  第1章 戦後思想の現在性   1 なぜ「戦後」を語るのか   2 戦争と敗戦   3 戦後知識人とアメリカ   4 一九七〇年代の転換点  第2章「近代の超克」とポストモダン   1 脆弱な天皇   2 資本主義とその挫折   3「近代の超克」論   4 天皇制ファシズム  第3章 戦後・後の思想   1 記憶の不在   2 戦後・後思想概観   3 消費社会的シニシズム   4 ガスについて   5 自由の条件の探求に向けて  後記 [#第1章 戦後思想の現在性(page1.jpg)] [#小見出し]1 なぜ「戦後」を語るのか †一回目のオウム事件[#「一回目のオウム事件」はゴシック体]  こんにちは。三回シリーズで戦後の思想についてしゃべろうと思います。だから、今日だけでは完全には完結しません。とはいえ、一応今日だけのところでもある程度のまとまった話になるようにするつもりです。  まず、なぜ戦後という枠組みで考えるか、という話題から入りたいと思います。つまり、たまたま一九四五年に戦争が終わってその後ということではなくて、あえて「戦後」というタームで考えていく思想的な必然性というのがあるだろうか。そういうことから考えていきたいんです。  言うまでもないことですけれども、戦後思想というと、戦後を一つの連なりとして、一貫した全体として見ることに何がしかの意味がなければしようがないわけです。たまたま四五年以降というようなことを考えてみてもしようがないわけです。結論的にはもちろんそうやって話をしようと思っているわけだから、戦後という時間の切り方で考えていくことに意味があると僕は思っているんですけれども、その理由は、ちょっとわざと刺激的なというか覚えやすい言い方をすれば、それは現在が戦前だからなんですね、僕の考えでは。  こういうふうに現在がまさに戦前だと考えているのは僕だけではありません。似たようなことを言っている人は前からいます。僕自身がそのように強く考えるようになったのは、オウム真理教事件からです。オウム真理教事件は九五年でしたね。オウム真理教は多くの新興宗教と同じように世界最終戦争の予言をしていました。ほとんどの宗教がそうだけれども、世界最終戦争の時期は一九九九年とか二〇〇〇年とか、要するに西暦の二〇〇〇年の切れ目ということに触発されてつくられているわけです。だから、仏教系だろうが何だろうが、キリストが生まれて二千年後の時期が迫っているということとの関係で最終戦争の予言というものがなされていることになっているわけです。  しかし、最終戦争は、『虚構の時代の果て』(ちくま新書)でも書きましたが、ある意味ではもう終わっているわけです。最終戦争についての物語というのは、たとえば『エヴァンゲリオン』もそうですが、どんな場合も「最終戦争以降」という設定なんですね。だから物語の中心は最終戦争以降の真の最終戦争だということになります。最終戦争が反復的に来るということ自体、ほんとうは矛盾していますね。その場合の最終戦争というのはもちろん第二次世界大戦です。  第二次世界大戦の勃発は、通常一九三九年とされていますね。日本がアメリカに宣戦布告したのは一九四一年です。あの戦争は日本にとっては十五年戦争としてみるべきなので、その場合はもっと前から戦争は始まっているわけですが。戦争がまさに世界大戦として意識されるものになったのは、だいたい一九四〇年前後です。それに対して予言されている最終戦争は二○○○年頃に始まることになっています。二つの最終戦争の時間幅はだいたい六十年ですね。  この六十という周期を、九五年のオウム事件に適用してみます。つまり六十年遡ってみるのです。すると驚いたことに、そこにちょうど一回目のオウム真理教事件があるわけです。第二次|大本教《おおもときよう》弾圧事件がそれですね。大本教とオウムって、名前もちょっと似ていますけれども、この大本教弾圧事件というのはたいへんオウム事件と似ているわけです。実際、九五年当時、二つの事件の類似性を指摘した人は何人かいました。大本教について説明する余裕はないですけれども、オウムの場合と同じように一種のテロリストであるとの嫌疑がかけられる。大本教は、オウムと同じように終末論的な世界観をもっており、その世界観に基づいた武装蜂起を企んでいる、という疑惑をもたれたわけですね。一九三五年、つまり昭和十年の十二月八日の未明、京都の綾部《あやべ》と亀岡にある大本のふたつの本部は、五百人をこえる警官に囲まれ、一斉捜査を受ける。当時の内務省は「大本を地上から抹殺する」との断固たる覚悟で、この捜査を準備したと伝えられています。この捜査で指導者出口|王仁三郎《おにさぶろう》をはじめとする主要幹部が逮捕され、三百人の信者が検束された。まるで内戦にそなえるかのような警察のやり方といい、これは九五年のオウムへの徹底した捜査を思わせるものがあります。  しかし大本の場合はオウムと違って冤罪《えんざい》です。見つかった「武器」(といってもこれはたぶん宗教的な祭具のようなものですが)のことを考えると、現実に武装蜂起を準備していたとは思えない。そうすると、現実にテロを行ってしまったオウムと、テロがせいぜいイマジネーションのレベルにとどまった大本とは、やはりかなり違うと考えなくてはならないようにも思われます。  しかし歴史をほんのちょっとだけていねいに眺めれば、「六十年前に最初のオウム事件があった」という命題はやはり維持されることがわかります。大本教事件から二カ月半くらいたったところで、日本の戦前最大のテロリズムがあるからです。二・二六事件ですね。僕の考えでは、大本教弾圧事件と二・二六事件を一セットにしてみれば、まさにそれは戦前のオウム事件になります。時間的に近接しているだけで、二・二六事件と大本教事件を一セットでみるなんていうのは、いかにも恣意的な見方だと思うかもしれませんが、単に時間的に近接しているからそう言っているのではありません。二・二六事件は皇道派といわれる陸軍の青年将校たちが起こしたことですけど、彼らの中には多数の大本のシンパがいたと言われています。また皇道派の思想的なリーダー北一輝と大本の出口王仁三郎の間にかなり積極的な交流があったことも確かです。つまり、皇道派と大本教は、精神的に近縁関係にあったんですね。だから大本教事件と二・二六事件を一セットにすることは決して不自然なことではないんです。 †二つの六十年間[#「二つの六十年間」はゴシック体]  ちょっと話が長くなりましたが、要するに六十年隔てたところで、第一回目のオウム事件がある。しかしこれだけだと偶然の類似だと思うかもしれません。しかしこの一致の背後にはもっとシステマティックな対応がある。もともとオウムと「大本+二・二六」の対応は、ふたつの最終戦争の六十年という時間幅をもとにして導かれた。だから、同じ操作を、最初の最終戦争の後の時間の全体に対して施してみるわけです。すると、背後にあるシステマティックな対応が見えてきます。  こういうことを言っているんですね。たとえば、戦後のスタートである日本国憲法の公布が昭和二十一年のことですね。それに対して、戦前の大日本帝国憲法がスタートしたのが、その五十七年前にあたる明治二十二年なんです。ここで気がつくのは、明治が四十五年間あって大正が十五年間あるわけですから、足したら五十九年ですから、約六十年隔てるということは、明治の年号と昭和の年号がほぼ平行して見られるということですね。そうしますと、僕がこれから言わんとしているシステマティックな対応というのは、だいぶ前に柄谷行人が「昭和・明治平行説」というかたちで見出したことだということがわかってもらえるんじゃないでしょうか。僕は彼の論考を初めて読んだときは、そういう平行性を見出すことにどういう意味があるのかと思いましたけれども、改めて九五年のときに考えてみると、その平行性にもうちょっと重要な思想的な意味があるのではないかと思うようになったんです。  憲法だけでなくいろいろな重要な事件について対応を指摘しておくことができます。たとえば、戦後の中で、一応占領下にあった日本が形式的にでも主権を回復することになるのが、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約によるわけですね。これが昭和二十六年です。それで明治のほうに戻ってみると、日本がまがりなりにも形式的には一応独立した、世界システムの中のまともなメンバーだとみなされるきっかけになるような出来事というのは日清戦争です。それは明治二十七年です。すると両者の時間幅でいうと五十七年の差が出てくるわけです。  それから、戦後、日本が、もうちょっと自信を回復し、主権というものにもある程度実質があると感じるようになるのはどの時期かというと、これは、後でもちょっと話しますけれども、昭和三十五年に六〇年安保というのがあって、安保が改定されて、それから昭和三十九年に東京オリンピックに成功する、このぐらいの時期です。明治のほうでこれに対応する出来事はというと、これは日露戦争です。明治三十七年のことになる。この年は東京オリンピックとの時間幅がちょうど六十年になるわけです。  明治の外交上の最も大事な課題は何かというと、不平等条約を改定するということですね。これに成功するのは、明治四十四年です。他方、日本の「戦後」にとって最大の外交上の課題は何かというと、沖縄返還であったわけです。これは昭和四十五年で、この時間幅も五十八年になるわけです。  さらに言えば、これは柄谷さんは言っていないんだけれども、後でちょっと話題に出す加藤典洋が次のようなことを言っています。オウム事件との関係でちょっと重要なのは、一九七二年の連合赤軍事件ですね。オウム事件が起こったときに多くの人が連合赤軍事件との類似を直観しました。この連合赤軍事件の六十二年前になりますが、一九一〇年に、大逆事件があります。加藤さんの解釈によれば、大逆事件と連合赤軍事件は同じような思想的意味を持った。どちらも、ある種の「反体制」の持っている意味を転換させ、どうしようもない閉塞感を人々に与えることになる。二つの事件が、類似した、比較しうる思想的な効果を持ったというのが加藤さんの考えです。ここも約六十年間の隔たりがある。  こういう対応をあまり細かく追求しても無意味です。僕の言いたいことは、対応が、似たような事件が過去にあったということではなく、システマティックなものだということです。つまり、本当に対応しているのは、二つの事件ではなくて、二つの期間なのです。そうしますと、どの「期間」を取り出すべきか、ということです。それぞれに対応しているひとつの期間とはどの期間か?  それは、言うまでもなく、昭和四十五年以降の時間幅、まだ終わっていない六十年間です。その対応の関係でみた場合に、現在はいつになるかというと、要するに昭和初期にあたるんだということになるわけです。つまり二・二六事件が起きた直後ぐらいの時期にあたる。現在が戦前にあたると僕が言ったのはそういう意味のことを言っているわけです。  現在を戦前であるというふうに位置づけるような時間幅というのは、戦後を一つのユニットとしてみる、まだ終わっていない時間のユニットとしてみるという、そういうもののパースペクティヴの中で出てくるわけですね。だから「戦後」という時間の切り方に意味があるんだということが僕の言いたかったことなんです。 †「昭和」という表現[#「「昭和」という表現」はゴシック体]  少しだけ付け加えておくことがあります。これから「年号」のことを話題にしますが、これは、「昭和・明治平行説」のことを書いた議論の中で、柄谷行人が、その冒頭で指摘していることです。皆さんはいろんな年齢の方がいて、僕より若い人が多いかもしれませんが、どうですか。私は昭和三十三年に生まれているんです。昭和三十年代という言い方はよくしますね。しかし、昭和は六十四年まであるのに、たとえば昭和五十年代とか昭和六十年代という言い方はほとんどしないんです。昭和四十年代というのは微妙なところなんですが、五十年代よりははるかによく使いますが、しかし三十年代に比べたら全然使わないですね。中間的なところがある。 「〜年代」などという十年ごとに時間を区切る方法は、便宜の問題だと思うかもしれませんが、そうではありません。「昭和三十年代」という表現が使われるのは、それによって、僕らが一つの時代についてのイメージを持てるからです。つまりそういう切り方に何かある種の共同主観的な意味があるわけです。ところが昭和五十年代という切り方は、僕らに何のイメージも与えない。そのかわり何と言うかというと、一九七〇年代とか八〇年代とかと言う。あるいは現在も一九九〇年代という言い方をするわけです。昭和三十年代という言い方にはリアリティがあるのに、なぜ昭和五十年代にはリアリティがないのか。昭和四十年代は半分くらいリアリティがある。「半分くらい」というのは、具体的にいうと、おそらく昭和四十五年までだったら昭和四十年代という言い方に意味があったんですが、昭和四十年代後半には、もう昭和四十年代という切り方が意味をなくしているということだと思います。だから、たとえば一九七二年に起きた連合赤軍事件は、昭和四十年代の事件というよりはやっぱり一九七〇年代初頭の事件だというふうに考えたくなる。  このことの意味をちょっと考えないといけないと思うんです。どういうことかというと、当たり前のことですが、昭和という言い方は日本でしか通用しないんですね。ですから昭和三十年代というイメージを持てるのは、日本人か日本に相当コミットしている人だけなんですね。昭和三十年代はそういう共同性のユニットでものを考えるときに意味があったんです。ところが昭和五十年代という言い方にはあまり意味がない。どうしてだろうか。それは昭和五十年代に生きている人は、自分が日本に所属しているという自覚が、非常に乏しいからですね。他方、一九七〇年代と一九八〇年代という表現は、言うまでもなく地球規模で通じると信じられているから、この表現を使うときに、自分は日本よりも広い世界、地球規模の世界に属しているという感覚が前面にせりだしているわけです。言い換えれば、自分が日本人であるということはもちろんわかっていても、そのことに特別な意味を見出せなくなっているときに、一九××年代という表現になるわけですね。  これはこういうことを考えればいいんです。たとえば、皆さんがどこかの何々県人だとして、その県が成立して以後何年という切り方をして自分の人生を振り返るということに大して意味がないわけでしょう。それは自分が何々県人であるということについてはもちろんわかっているけれども、そういう県という単位の共同性を、自分のアイデンティティの要素をなすエッセンシャルなことだと考えることに何の意味も感じないからです。  ですから、昭和三十年代という言い方になるときは、いわば日本人は日本人という自覚の下で生きているんですね。ところが昭和四十五年ぐらいを境にそういう時代区分が意味がなくなる。つまり、自分は日本人であるということが多くの日本人にとって派生的な意味しか持たないかのように感覚される時期が、昭和四十五年を境に起きているんですね。だから昭和五十年代、六十年代という言い方はないんです。 †近代の天皇[#「近代の天皇」はゴシック体]  さて、この見方を先ほどの戦前の同じ六十年間に投影した場合、どういうことが言えるかというと、僕はこういうふうな気がするんです。  たとえば、天皇というものを、近代の天皇制というものを考えてみます。このとき非常に重要な意味を持って現れるのは、もちろん明治天皇ですね。それから、昭和天皇のリアリティも強烈だ。けれども、その真ん中にいる大正天皇というのは非常に希薄な実在感しか与えないですね。これはいろいろ大正天皇の心身上の問題点があったということもありますけれども、大正天皇が、そういう事実も含めて、いわば時代に見放されているということです。大正天皇の実在性が希薄にしか僕らに訴えるものがないということには、偶然以上の意味があるんじゃないかと思うんです。  これはどういうことか。天皇というのは、もちろん日本でだけ意味をもつ。明治天皇のリアリティが強烈だということは、つまり明治時代に——おそらく厳密にはその後半に——日本人は日本人として自覚を強烈にもたざるをえないようなやり方で生きていたということを示しています。それに対して大正時代は、天皇が飾りにすぎないかのように感じられている時期になる。たとえば大正時代の最も重要な時代思想というのは民本主義ですね。民本主義と民主主義とどう違うのか。民本主義というのは、要するに君主を戴いた民主主義ということですね。こういう主張が通るということは、逆に言うと、君主を戴いているけれども、通常の共和制的な民主主義であるかのように振る舞うことができるということです。つまり、君主がいないかのようにやっていけるというわけです。  大正時代に天皇が存在しないかのように感じられているという事実は、先ほど述べた、昭和五十年、六十年という表現にあまりリアリティがないということと似たような意味を持っていると思います。実際、先の六十年の周期を対応させる説でいくと、昭和五十年代、六十年代というのは、まさに「大正」にあたります。天皇というのは、明らかに日本のネーションの範囲内でしか意味を持たないモチーフですから、大正時代は、——昭和五十年代・六十年代に生きていた者の場合と同様に——ある意味で日本人であるという帰属の自覚よりもまずは、もうちょっとコスモポリタン的な「市民」として生きているかのような感覚が前面に出ていた時代だと言っていいかと思います。  こう見ていくと、いわばグローバリゼーションが進んで、日本人という自覚の意味が相対的に低下していく過程が進んでいくという具合に思い描きたくなりますが、実は、そういう一本調子ではいかない。大正の後に何が起きたかというと、だれでも知っている昭和時代が来て、昭和維新期というのがある。つまり、日本のファシズムがやってくるわけです。この時期は、言うまでもなく、何らかの意味で日本人であることが、あるいは日本の「帝国臣民」であるということが、人々の意識を猛烈に強く支配した時期です。昭和天皇の実在感は、このことの反映です。  そうすると、まず明治という時代があって、そこで日本人である自覚が非常に意味があった時期があって、そして、大正という今度は日本人であることの意味が著しく希薄化する時期がやってきて、その後、なぜか、再び、日本人であることの意味が人々をものすごく魅惑してしまう時期が来るんですね。そういう三つのステップをたどっていく。  これをもう少し政治思想の用語で言えばどうなるかというと、よく言われることですけれども、伊藤博文がつくった明治の国家体制というのは、一般に「天皇の国民」であったとされます。それに対して、——久野収氏が指摘したことですが——ファシズムの思想的な首領であった北一輝が考えていたことは、この伊藤の規定をひっくり返すことだったとされます。つまり伊藤博文の体制を極力利用することによって、「天皇の国民」を「国民の天皇」に逆転させるというのが、二・二六事件を導いた北一輝の思想の核心になるわけです。そして、今見てきたことは、実は、その「天皇の国民」と「国民の天皇」の真ん中に、「天皇なき国民」(大正時代)というのが入るということです。つまり「天皇の国民」があり、いったん、「天皇なき国民」という形で、天皇の(人々の意識の上での)排除があった後に、天皇は、再び、「国民の天皇」という逆転した規定の中で回帰してくるという構造がある。こういうふうに僕は思うんです。 †日本人への回帰[#「日本人への回帰」はゴシック体]  さて、そういうふうに考えた上で、今度は我々の時代を振り返ってみる。昭和五十年、六十年代という言い方にあまり意味がない、つまり日本人であることにどうでもいいような感覚を僕らが、かなりの人が持った時代があった。つまり、自分はもちろん、日本語をしゃべり、日本国籍を持ち、この国の法律とかセキュリティに大きな恩恵を被っている、それは間違いないんだけれども、それらのことは非常に偶有的なこと——自分自身のアイデンティティにとってどちらでもよいこと——だという感覚が支配的だった時代があった。それが一九七〇年代、特に一九七〇年代後半から八〇年代だったように思うんです。  ところが、現在どうだろうかと考えたときに、僕が思うに、これは皆さんの感覚でどうなのか聞きたいところでありますけれども、八〇年代末期以降は、日本の思想の文脈の中で、日本人であるということの自覚が非常に重要な意味を持ち始めている時期だと思うんです。いやがおうにも日本人という共同性の自覚が前面に出て来ざるをえなくなっている。戦後の中で、「日本人」という共同性の感覚が回帰してくる仕方は、ちょうど「天皇の国民」が「天皇なき国民」を経由して「国民の天皇」に帰ってきたときと同じような軌跡を描いているんじゃないか。  このことを示す具体的な事例は、たとえば皆さんもよく知っている問題で言えば、従軍慰安婦問題ですね。従軍慰安婦の論争の各陣営の是非を論ずるのはここでの課題ではありませんから、そのことは別にしておいて、この論争自身をいわば「精神分析」してみますと、次のようなことが言えます。歴史の教科書を書き換えて、たとえば従軍慰安婦についての記述を削除すべきだと主張する人たちがいる。このとき賭けられていることは、日本人であるということ、日本人という共同性に同一化するということです。日本人であるということに回帰したいんですね。日本人という同一性に回帰するにあたって、しかし、現在では他国となっている領域の従軍慰安婦を凌辱したという事実を、抹消しておいて欲しいということです。言ってみれば、従軍慰安婦問題は過去の性犯罪のようなものなんです。性犯罪というのは、通常の犯罪とは異なり、その法的な軽重とは別に、強い羞恥心を喚起しますね。普通の犯罪の場合には、たとえば特にそれが確信犯的になされた場合には、犯罪者は、ときに、それをあえて隠そうとはしない、ということもありえますが、性犯罪の場合には、それがたとえ軽微な犯罪である場合でさえも、隠しておきたいと思う。つまり、性的なことというのは、自分の内的な秘密であり、自分自身の内的な本性のようなものでありながら、決して、表立って同一化できない部分を構成するのです。従軍慰安婦問題というのは、日本人というアイデンティティの中で、こうした同一化できない内密の部分にあたる。だから、これを、少なくともそれだけはノーカウントにしておいてもらわないと、日本人という共同性に帰属意識をもつことができない、というわけです。  他方で、従軍慰安婦問題を媒介に日本が侵略したアジアの諸国への日本の戦争責任を問う側においても、やはり、日本人になるということが賭けられていると言えます。というのも、戦争責任を何らかの形態で担ったり、謝罪するためには、自分が日本人でなくてはいけませんからね。  ですから、従軍慰安婦問題が急激に時代のイシューになっているということは、日本人であるという自覚が何か切迫したものになっている、そういう時代背景と関係があるんですね。このカーブの描き方は戦前にも同じようなものがあった、と僕は思うわけです。 [#小見出し]2 戦争と敗戦 †加藤典洋の「敗戦後論」[#「加藤典洋の「敗戦後論」」はゴシック体]  ちょっと前置きが長くなりましたが、戦後という枠組み、あるいは戦後思想という枠組みで考えることの権利はどこにあるのか、そのことを述べてきたわけです。  これから戦後について考えたいんですけれども、まず戦後を考える前に、ちょっと戦争のことについて先に考えていきたいと思います。戦争とは何であったかということとのかねあいで戦後ということについて考えたいんです。そのことを考えるにあたって、皆さんの中にも読んでいる方が多いと思いますが、加藤典洋さんが一九九五年以来、戦争、特に敗戦とか終戦とか、そういうことについていろいろなことを書いていますね。特に九五年に書いた論考が、著しい反応があっていろいろと話題になっています。  賛否はともかく、加藤さんは、重要な問題提起をしたと思います。彼は、九五年に「敗戦後論」というのを書いています。そして九六年には、同じ『群像』に「戦後後論」というのを書いています。それから、つい最近の『中央公論』に「語り口の問題」という論考を書いています。後になればなるほどわかりにくいんですけれども。特に最初の「敗戦後論」というのが多くの反響を呼んで、反響といってもかなりの部分はネガティヴな反響です。たとえ、ネガティヴなものであっても、反響の大きさが、彼の論考のインパクトを示してはいます。僕は、「敗戦後論」が出てしばらく後でしたか、自分が読んだ文章の中で加藤さんのこの文章ほど読んで腹が立った文章はなかった、といっている人の話を聞きましたが、この文章は、多くの日本人のとてもデリケートな部分——それは逆鱗《げきりん》にあたる部分かもしれませんが——に触れるものがあったのでしょう。簡単に言うと、「敗戦後論」は、「裸の王様」に出てくる子供たちのようなもので、皆が知っていたり、感じたりしていながら、口に出せなかったこと、出さなかったことを、はっきりと分節して語ってしまった、というところがあるんですね。  反響のうちで、比較的きちんとした論考になっているものは、主として批判的・否定的なものですね。その代表は、高橋哲哉さんのものです。批判側は、高橋さんを含めて、何人かが比較的長い論考をいくつも書きましたが、加藤さんのものにポジティヴに反応した側には、それに匹敵するようなきちんとした論考は、ほとんど見当たらない。だから、批判側は、その批判のバトンを受けて走ってくれる人がいっぱいいるのに、加藤さんには、いくら走ってもいつまでたってもバトンを受けてくれる人がいないままひとりで走り続けている、かわいそうなランナーみたいな感じがしますね。  結論的に言えば、僕は加藤さんの言っていることに本当には賛成できません。かなり肝心なところに異論をもっています。けれども、加藤さんの議論へのこれまでのほとんどの反論は、無効だと思います。それは、加藤さんの議論が提起される前からあった立場からの反論です。それは、聞き慣れた議論だという印象を免れがたい。反論するとすれば、加藤さんの議論の向こう側に突き抜けた立場からやらなくてはならないように思います。 †戦後の薄明[#「戦後の薄明」はゴシック体]  しかし、ここでは「敗戦後論」を評価することをやりたいわけではありません。「敗戦後論」ではなくて、彼がそのあとに書いた「戦後後論」という論文——こちらは「敗戦後論」と違ってほとんど論じられることはなかったんですけれども——これが、僕には非常におもしろいんです。この「戦後後論」は、非常に難解な文章ですが、太宰治について書いているんです。こういうことをまず問題にしています。太宰治はもちろん戦争を経験している。彼は、戦争中こそ戦争について若干書いているけれども、戦後になって、事実上はほとんど一つも戦争について書いていない。(実はひとつだけ例外があるんですが。)それは、単に戦争について書かなかったというだけではない、もう少し深い思想的意味がある。  たとえば皆さんもご存じのように、戦後の日本の文学を考えたときに、最初のころに戦後文学というのがある。戦後文学の範疇に入りきらない人たちとして、無頼派というのがあるんですね。別に意図的に自分たちで作ったグループではありませんが、とにかく戦後派とはちょっと違ったグループとして、無頼派というのがあって、太宰治はその一員と普通考えられています。無頼派の戦争に対する態度は、戦後派のそれとは少し異なっているのですが、その中でも、太宰は際立っている。同じ無頼派に分類される坂口安吾や石川淳と比べても、太宰の態度は全然違う、この点に加藤さんは注目する。  坂口や石川は、戦後になって、いわば戦後の追い風の中で文章を書いた。坂口や石川が、戦後になって戦争について書いた文章や小説を読むと、たとえば坂口の「続戦争と一人の女」でも「無尽燈」でも、たいへん傑作だけれども、どうしても、この同じことが、戦後ではなくて戦時下に書かれていたとしたらもっとすごいことだろうにという感覚を残す、というわけです。つまり、これらの文章は戦後を追い風にしているけれども、この戦後という社会の取り分を、自分の功績にしてしまっているという印象があるわけです。  それに対して、太宰治はそんな印象は与えないというのが加藤さんの言っていることですね。加藤さんの例によって、たいへん独特な比喩を使って説明すると、こうです。戦前と戦後の間にいわば水門がある。その水門を開けると、普通はそこに水が入ってくる。乾いていた地面にどんどん水が入ってくる。これが戦後を追い風にする、ということなんですね。ところが、太宰だけはそうじゃない。水門を開けても水面が微動だにしない。初めから同じ高さなんです。つまり、水門を開けたからといって全然水面が上昇してこない。そういう感じを太宰だけは与えるというんですね。つまり、逆に言うとどういうことかというと、太宰は戦時中に書けたこと以上のことを戦後書こうとはしなかった。あえて戦時中に書けたことだけを戦後も書き続けるという選択をしたと、そういうふうに診断するわけです。  以上が加藤さんの言っていることなんだけれども、僕は今度はこの意味を翻って考えてみたいわけなんです。さっき言ったように、坂口にしても、石川淳にしても、あるいは戦後派の文学者だったらもっとそうですけれども、戦後という空間は、小説という形であれ評論や論文のような形であれ、思想を表現することを、いわばより容易にする条件を整えたんですね。思想の表現が戦時中よりもはるかに容易になっている。ここで、別に戦争中は思想弾圧があったから大変だったということを言いたいのではありません。たとえば坂口安吾や石川淳のような人は、別に思想弾圧を恐れて書かなかったような人ではないんです。そういう人にとっても、戦後という空間は、思想表現にとっての追い風として現れる。戦後という空間には、思想の表現を容易ならしめる構造が宿っているんですね。  逆に言えば、戦争というのは思想を何らかの形で表現することの困難として体験されるということです。それも言論弾圧のような外的なものではなくて、内的に、思想を表現することの本質的な困難として、戦争がある。加藤さんが言っているように、もし太宰治の水面が微動だにしないスタイルをとっているのだとすれば、そのことが何を意味しているかと言うと、太宰は、戦争中において思想を表現することが困難であるというその条件をそのまま保持している、ということです。戦争は、思想表現の困難として、あるいはより強く思想表現の不可能性として体験されるのですが、この困難や不可能性を、戦後もあえて堅持する態度、これが太宰が選択したスタイルだというわけです。  ひとつ事例を出しておきます。太宰に「薄明」という題の短編小説があって、これは、昭和二十一年十一月に発表された作品で、彼が戦後書いた唯一の戦争についての小説です。そこには、たぶん太宰自身が投影されていると思われる主人公が、田舎に疎開しているときのことが書いてあります。せっかく疎開したんだけれども、疎開先でも空襲に遭った。そのときに、自分の娘が悪性の結膜炎にかかってしまって、目が開かなくなってしまうんですね。無理やり目をこじ開けると目がどろんとした状態になっていて、早く医者に見せなくてはいけない。しかし空襲が来てしまっている。いろいろとあって、結果的には、何とかぎりぎりのところで医者に見せることができて失明を免れる。これがストーリーですね。  もちろんタイトルの「薄明」というのは目が見えなくなりかけた娘の視覚が暗闇に没しかけていることを直接には意味しているわけです。しかし、それだけではなくて、ここには寓意が込められていると思うんですね。思想というのは、今現在において自分が何を体験しているのかということを表現しなくてはいけない。ところで、戦争中というのは、そういう今おのれが何を体験しているかということに関して、いわば薄明である、そういうことを含意しているのではないんでしょうか。女の子の目の見えない状態というものに託されているのは、戦争中において思想を表現することの困難ということとオーバーラップさせて考えてみてもいいんじゃないか、と僕は思うのです。  この小説の結末は、目が見えるようになった娘と主人公が、ふたりで、焼け跡になった疎開先の町を見ており、「皆焼けちゃったね」と女の子が言ってほほえむ場面です。「皆焼けちゃったね」と言いながらほほえんでしまう、こういう終わり方は、皆焼けちゃったということがどれほどの意味であろうかといった反語的なものを感じさせます。戦争によって、あるいは戦争が終結することによって、何かすべてが決定的に変わったということに対するアンチテーゼとして、すべて焼けちゃったねということを軽いほほえみで受け流す態度もあるのではないか。この小説は、薄明の状態が、生理的には治療によってなくなるけれども、しかし本質的な精神の条件としてはまだ続くのだ、あるいはそれを維持していくのだという決意表明として読むこともできると思うんです。 †トカトントン[#「トカトントン」はゴシック体]  もう一つだけ言っておくと、加藤さんは「戦後後論」の中で、太宰の作品を年代順に読んでいったときに一つだけ決定的につまずいた作品があると言っているんですね。それは昭和二十二年に書かれた「トカトントン」という名前の小説です。これは変な小説で、書簡体の形式になっている。  実際に小説に対応した現実があり、それを脚色した小説らしいのですが、それは、太宰と思われる主人公の作家が、ある読者から手紙を受け取ったという形式になっています。その手紙には、戦争が終わった、つまり玉音放送があったその日以来、あることに神経症的に悩まされているということが書かれている。手紙の筆者は兵隊だったわけですが、彼の上官が放送を聞いたときに「今ので戦争は政治的には終わったけれども、しかし俺はまだ本質的には戦争を続けるのだ」、つまり戦争の終わりを決して認めないという強い決意表明をする。その上官の態度に非常に高潔なものを覚えて、その兵士は感銘を覚えるんですね。がそのとき、突然、トカトントンという金槌の音が聞こえてくるんです。それ以降、この兵士は、何をやっても、それを一生懸命やり始めると、少し熱が入ってきたところで、突然、トカトントンという耳鳴りが聞こえてきて、それが聞こえると、一挙に情熱が冷めてしまうんです。たとえば郵便局員としての仕事を一生懸命やっても、恋愛をしても、突然、トカトントンが聞こえてきて、仕事への熱意も恋愛感情も失せてしまう。そして、何を読んでも、それが何かまじめな話だとすると、いつでもトカトントンという音が聞こえてくる。最近では「あなたの小説」、おそらく太宰の小説を読んでもトカトントンと聞こえてきてしまう。何を読んでもトカトントンという雑音が入ってきてしまって、まともにそれを理解したりとか、まともにそれを引き受けるということができなくなってしまうという悩みの手紙が来るわけです。  それに対する太宰と思われる主人公の返事はすごく簡明なものです。「そういう症状に私はあまり同情できない」と。こういうことを聖書の一節を引きながら返事する。  これに加藤さんは決定的につまずいてしまった。なぜか? もし太宰が思想を表現することの困難を戦中に体験し、その困難さを戦後も持続させることに何かの意味を見出していたとするならば、そうだとすれば、どういうふうに考えなければいけなかったか。その場合に、太宰は、トカトントンという雑音のほうに、トカトントンという雑音に苛まれるという症状のほうに、コミットすべきだったのではないか。どんな立派な思想や理念も、それがトカトントンという金槌の音になってしまう。トカトントンという雑音は、思想を正しい、妥当な思想として語り表現し、さらに実践することへの障害として現れている。太宰としては、この障害をそのまま引き受けている人がいるとすれば、彼は、その人を支持すべきであって、この人を突き放すようなことを言うべきではなかったのではないか。  おそらく太宰自身の態度の内に微妙な揺れがあります。この小説は最後の主人公の短い返答よりも、トカトントンの症状の記述のほうにはるかにリアリティがあるように書かれている。ですから、太宰が心情的にコミットしていたのは、本当はトカトントンという症状のほうだったのではないか、という印象すら与えるのです。しかし、最後に言語化した決断としては、これと逆のことをやってしまった。そういう印象を与えるのです。  戦争は、このように、思想を表現することへの決定的な乗り越えがたい困難としてある。そのことを戦後まで維持したのが太宰治だったというのが加藤さんの診断ですね。もう少し付け加えておけば加藤典洋は、もう一人『ライ麦畑でつかまえて』という作品で有名なサリンジャーを非常に評価しているんですね。彼を戦争小説家とみなしている。戦争小説家というのは、戦争について書いたということではなく、戦争の中で書き続けたということです。『ライ麦畑でつかまえて』もそうです。加藤さんはこのサリンジャーを非常に評価して、いろいろなことを言っているんですけれども、ここでは別の小説から一つだけ紹介しておきます。  サリンジャーはある短い小説(「最後の休暇の最後の日」)の中でこういうことを主人公に語らせているんです。その主人公は第二次世界大戦を戦っていると思われるんですけれども、帰省していて、明日また出兵するというときの家族の晩餐の場面です。彼のお父さんは第一次世界大戦の経験者らしく、何の気なしに、第一次大戦のことを話す。それに対して、主人公は、しばらく沈黙をおいたあと、次のようなことを言うんです。「パパ。生意気なようだけど、ときどきパパは戦争のはなしをするとき、——パパの年代のひとたちはみんなそうなんだけど——まるで戦争のおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえるんだな。……みんな、戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、だけどなんだか——みんな、戦争に行ったことをちょっと自慢にしているみたいに思うんだ」と。そして、さらにこういうわけです。「この前の戦争にせよ、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない」と。つまり戦争において語ることが不可能だという条件がある。その条件は、戦争が終わると消え去る。しかしそれにもかかわらず、戦争中にあった、困難な条件を堅持することのほうが大事なんではないか、そういうふうに読めるんですね。 †敗戦の抑圧[#「敗戦の抑圧」はゴシック体]  戦争は自らの体験の本質を表現することの、言い換えれば思想を表現することの、乗り越えがたい困難としてある。このことを太宰やサリンジャーのような作家は僕らに教えているわけです。しかし戦争が思想の表現にとっての困難や不可能性として体験されるのはなぜだろうか。逆に言うと、戦争の終結は、どうして、こうした困難を除去するのか。これがまず問われることです。  終戦は、思想表現の、この困難の「排除」として体験されます。ところで、戦争は、その本性上、二つの立場をくっきりと分けます。それは、自らを勝利者の側に属するものとして認識する者と、敗北者の側に属するものとして認識する者とに分けるわけです。この場合、困難の「排除」の仕方が、勝利者の側と敗北者の側とでは異なってくる。両方とも排除だけれども排除の後の操作が違う。どう違うかというと、敗北の場合は引き続き、排除したこと自体を、つまり敗北した事実自体を抑圧するというメカニズムが追加的に働く。  ここで、私は、精神分析の用語を意識的に使ってみました。精神分析では、意識に上らない、意識的な表象の中に現れない事実を説明する二種類の心の操作があると考えられているんです。一つは排除、一つは抑圧です。抑圧と排除はどう違うかというと、もちろん排除のほうがより一層徹底しているわけです。つまり、抑圧というのは心の中の表象として記述されるんだけれども、その上で記述したことを無意識のほうに圧しやるという操作です。それに対して排除というのは、記述すら起こらないんです。きちんとした表象の中に記述すら起こらない。  戦争というのは、なぜかわからないけど、表現することの不可能性として現れる。そういう戦争というのは、戦後、排除されるんです。つまり、歴史を一種の精神分析と見立てるならば、戦後の歴史の中に戦争そのものが排除される。勝利であろうが敗北であろうが排除される。つまり、戦争がまるでなかったかのように、後の歴史が進行する。もちろん、戦争そのものが事実としてあったことは記録されているけれども、戦争の中の生々しい体験——表現することの困難として生きられていたような体験——は、まるでなかったかのように、後の歴史が体験されるのです。そして、この排除されたものを回復しようとする努力として、あるいは排除そのものに抗する努力として、サリンジャーや太宰の仕事があったというふうに考えていいわけです。  もう一回整理すれば、戦争というのは単なる排除ですが、敗北はしばしば排除プラス抑圧の二重の操作なんだということです。注釈を付けておきます。厳密に言えば、終戦や敗戦にもいろいろあります。ここで述べたような排除と抑圧の効果が劇的に現れるのは、私の考えでは、戦争が世界大戦のような全面戦争だった場合です。たぶん日本の第二次世界大戦の敗戦は、こういうものであったと考えられる。ドイツの場合も、より徹底的に、同じ機制が働いていると解釈できます。今みたいに精神分析の言葉で対応させたのは私ですけれども、思うに、加藤さんの——「戦後後論」ではなく最初に(一九九五年に)書いた——「敗戦後論」というのは、日本における、敗戦の抑圧の問題を扱っているんです。  人は、何者かとしてのアイデンティティを有する。つまり、人は、何者かとして存在している。そうしたアイデンティティは、共同的な関係性の中で付与される。そして共同的な関係性は、あるいは共同体は、誰にとっても、与えられたものとしてあるわけです。したがって、必然的に、誰にとってもそのアイデンティティは、過去の条件に、自分自身が誕生するよりも前の過去の条件に、規定されていることになる。誰もが、すでに与えられている——すでに決定されている——共同的な関係性を引き受けることによって、つまりそれを選びなおすことによって、自らのアイデンティティを保持するからです。敗戦というのは、その彼が引き受けようとする過去の条件が、つまり共同体の現在を構成している過去の条件が、まさに彼がその引き受けによって与えられる現在のアイデンティティを帯びて振り返った場合に——要するに現在の視点から振り返った場合に——全面的に否定的なものにしか見えないということ、こういう現象を惹き起こすのです。これが敗戦の意味です。  ここには、自己否定の構造がある。彼の現在のアイデンティティが、過去のトータルに否定的な条件に依存していることになるからです。現在のアイデンティティを引き受けることは、それを肯定することを含意しますが、まさにその肯定が、同時に、そのアイデンティティの否定でもある、ということになってしまうわけです。だから、こうした自己否定の構造は、要するに敗戦は、自身のアイデンティティの一貫性を保持しようとすれば、どうしても抑圧されざるをえなくなるわけです。  敗戦が、自己否定的な構造をもっているということをもう少し説明しておきます。たとえば、ここにいる皆さんの多くは日本人として安全に生きている。その「日本人であること」を規定している過去の条件があるわけです。その過去の条件というものが、現在の視点から眺めたときに、どうしても全面的に否定せざるを得ない、そういう状態を強いられることが敗戦なんだと、言っていいと思います。こうした自己否定の構造を、加藤さんは、「敗戦後論」の中で、「ねじれ」と表現しているんですね。  たとえば、僕らは侵略戦争をかつてやった国の中に住んでいる。もちろん、この中には一人として侵略戦争を自分が参戦してやった人はいないと思うんですが、しかしその侵略戦争という歴史の後に出てきた条件を、自分が生きるための前提の条件として引き受けて生きているわけです。そうすると、自分が今生きているということの、あるいは自分が何者かとして今生きていることの条件の一つとして、その侵略戦争というものがなければならないわけです。ところが、この侵略戦争は、その戦争の当時は場合によっては意味のある戦争だという考え方もありえたかもしれないけれども、現在の視点から見れば、どう見ても正義にかなわないものに見えてくる。つまりどうしても全面的にネガティヴに言わざるをえない。それが敗戦ということだと思うんです。それに対して、同じ戦争を経験していても、それが勝利として終わっていればどんなに多くの犠牲者を出していても、あとからポジティヴなものとして意味づけることができる。もっとも、私は、こういう勝利者側の意味づけも、やはりある種の自己欺瞞があると思いますし、サリンジャーが戦争の思い出を語る父に違和感を覚えたのも、そのためだと思いますが、このことについては、深く立ち入りません。  ともあれ、先ほどの従軍慰安婦問題なんていうのも、そういう敗戦が強いる自己否定の構造と関係がある。従軍慰安婦の記述を教科書から削除したいという欲求は、敗戦が強いる自己否定の構造に対する抑圧の一環です。教科書書き換えの運動は、戦争があり、それに敗北したということがなかったということにしてもらわないと、「日本人」というアイデンティティを引き受けることができない、という悲鳴のようなものです。ついでに、従軍慰安婦の問題と関係づけて、脚注的なことを述べておきます。実は、先にも少し示唆しましたが、全面的に否定的にしか見えないような、自分が肯定的に認知することができないようなことにこそ、アイデンティティが依存している、という構造は、アイデンティティの構成の普遍的な条件なんです。そのことが、一番はっきりする例が——少なくとも近代以降は——「性的なこと」です。性的なこと、性的な趣味は、恥ずかしく、どうしようもなく否定的に見えるけれども、しばしば、自分が自分であるということの中核的な部分をなしているかのように感じられている。こうした自己否定のゆえに、性的な趣味は、一般には隠蔽されているわけです。こうした,性的なことにまつわる自己否定の構造と同じものを、敗戦が、いったん顕在化させてしまうんです。侵略戦争の過去の恥辱——否定的な自己像——が、従軍慰安婦という性的な問題にとりわけ投影されることには、だから、理由があると思うんです。 †世界大戦とファシズム[#「世界大戦とファシズム」はゴシック体]  今日私の話との関係では、こうなります。先ほど戦争とは表現することの不可能性や困難に結びついているんじゃないかということを言いました。そうすると、敗戦による抑圧あるいは勝利による排除というのは何かというと、言ってみれば思想を表現することの可能性というものを回復する歴史的な操作であると考えてもいいですね。日本の場合、敗戦による抑圧というのは具体的にどう体験されたかというと、言うまでもなくアメリカによって占領されたという事実として起きるわけです。とにかく僕らが問わねばならないのは、なぜ終戦が、あるいは厳密には、終戦(敗戦)の抑圧が、戦争中にはあった、思想表現の困難という条件を、あっという間に解消してしまったのか、ということです。  今後の議論のための補助線的なこととして一つだけ言っておきます。たぶん日本がファシズムだったのと同じ時期に、ドイツにもイタリアにもファシズムというのがあった。文字通りのファシズムはイタリアにあったわけですけれども、最も典型的な一般概念としてのファシズムというのを考えたときに一番多く引用されるのは、もちろんドイツのナチスですね。  そのドイツのファシズムを考えたときに、僕らはこういうふうに考えてみることができる。ドイツというのは、第一次世界大戦の敗戦国なんです。つまり、ドイツには、敗戦とか戦争ということによって強いられる困難があって、それはさっき言った表現することの困難と結びついているある困難であったはずです。ファシズムは、それに対抗する一つのやり方だったのかもしれない。ドイツの第一次大戦後の体制を、ワイマール共和国と言います。それは大変民主的な制度を持った国家だったんですが、それを、実質的に否定するものとして、ファシズムが登場する。言い換えれば、ワイマール共和国には、何かの限界があったわけです。それが、ここまで述べてきた、思想を語ることの不可能性ということと関係があるのではないか、と僕は考えています。つまり、ワイマール共和国は、この不可能性を完全に解消するものではなかった。ファシズムがはじめて、それをなし遂げたのではないか。このように考えうる根拠が、いくつかあります。  とりあえず、言いうることは、こういうことです。ワイマール共和国の民主的な体制からすれば、第一次大戦というのはドイツにとって純粋に否定的な意味しかもちえない。つまり、今述べたような、敗戦の自己否定の構造が生ずる。しかし、ファシズム体制のもとでは、この否定性がオセロゲームのように反転して肯定的なものになる。大戦で無駄な死を遂げた戦士たちの死が、突然、栄光の死としてよみがえることになる。   [#小見出し]3 戦後知識人とアメリカ †『世界』を舞台にして[#「『世界』を舞台にして」はゴシック体]  ともあれ、ここでは、主に日本に即して考えることにしましょう。今度は具体的に、日本の戦後思想との関係でものを考えてみたいと思うんです。戦後になって開花した思想の担い手を指す語として、私たちは、「戦後知識人」という言葉を使いますね。そして、戦後知識人によって担われた代表的な思想が、「戦後民主主義」です。  そういう戦後知識人とか戦後民主主義とかというものの思想表現の場を提供したのは何かというと、これは今でも続いている岩波書店の『世界』という雑誌です。『世界』という雑誌は、戦後創刊されたわけです。  ところで、先ほどから何度も引用している加藤さんは、岩波書店の『世界』という雑誌の創刊の当初のものと、それから少し後のものとを比べたときに、執筆者のラインナップにあるシフトが見られるという点に注目しています。創刊号にどういう人が書いているかというと、たとえば美濃部達吉とか、安倍能成とか、和辻哲郎とか、錚々《そうそう》たるメンバーが並んでいます。古代史の津田左右吉のような人も、創刊してすぐに書いています。でも、この人たちは結構な年齢に達している人たちですね。これが、やがていわゆる戦後知識人といわれる人たちに取ってかわられるわけです。その代表が、もちろん、象徴的にも五十一年目の敗戦記念日に亡くなった丸山真男だったりするわけです。このときに、一番当初の執筆陣からいわゆる戦後知識人への気づかれないシフトをやってしまったのに、雑誌自身が、あるいはその読者が、このことを自覚していなかった。そのことで、ある種の戦後における欺瞞に——僕の言葉でいえばさっき言った「敗戦という事実の抑圧」ですね——、この雑誌が加担してしまったのではないか。そういうふうに加藤さんは論を進めるんですね。  具体的に言えば、こういうことなんですね。初期の執筆陣、たとえば美濃部達吉にしても、安倍能成にしても、要するに明治生まれの、オールドファッションなリベラリストであって、皆ある意味で天皇陛下に対して思想的というよりは個人的なというか、そういう敬意を持っている。もちろんファシストという意味ではないわけですが、天皇に対してある何がしかのポジティヴな感情を抱き、しかしリベラリストであったと。そういう明治生まれのリベラリストなんですね。それから、執筆者がやがていわゆる戦後民主主義を担う革新派リベラリストへと移行する。これは、単に、執筆者の世代が、年寄りから若い人に替わったということを示しているのではなく、ここには、もっと大きな姿勢のシフトがともなっている。  たとえば、これを言うと敗戦の抑圧という意味がちょっとわかっていただけると思うのであえて紹介しますけれども、先ほどもちょっと出した津田左右吉が創刊第三号に文章を出している。津田は、戦争や学問への当局の弾圧に抗して実証的な古代研究をしていた志操堅固なリベラリストです。そこでは、彼は、編集部や読者の期待どおり、戦後のリベラルな気風を歓迎することを示す文章を書いている。ところが、次号のために彼が寄せてきた論文は、一転して、熱烈な天皇賛美の文章だった。これに編集部は驚き、「これは非常に困る。これは雑誌にとっても、先生にとっても不本意な結果を招く恐れがあります」というような手紙を書いて出しています。もちろん津田さんはそれを受けても全然中身は変えなかったわけですけれども。編集部がここで示した態度が、敗戦という事実の抑圧ということです。  なぜ津田はここで天皇賛美の文章を書いたのか。もし、戦後に革新派のリベラリストしか存在していなかったならば、そういう態度に支配されていたならば、まるで、日本人にとって、初めから天皇なんかどうでもよかったかのようになってしまうんですね。しかし、自分たちがあるとき、たとえ消極的にであれ、何かのために戦い、勝とうとした。そして、自分たちの戦いを意味あるものとしていたその何かが、今では、ゴミになってしまったということが、敗戦ということです。かつて、宝物というか、貴重品として扱ってきたそれが、今まさにゴミになった。そういうふうに考えていかなくてはいけない。  だから、津田がやったことは、今やゴミになった「それ」が、かつては宝物だったという態度を持続させることであり、このことを否定したら、自身の現在のアイデンティティの存立の根拠をも否定することになる、ということでしょう。敗戦ということを抑圧するということは、それが最初からゴミであったかのような態度を取ることです。逆に言うと、今言った津田の頑固な態度の中に、抑圧を回避したり、あるいは抑圧による欺瞞というものを回避するための道があったのかもしれない。しかし、その決定的なチャンスを逸して、『世界』は、一九五〇年頃までには完全に通常の革新派のリベラリスト、あるいは民主派による雑誌に変わる。これはもちろん『世界』だけがそうなったと言っているのではなくて、当時の論調がすべてそういうふうに変わっていくということです。 †明治生まれ[#「明治生まれ」はゴシック体]  ここでちょっとだけ僕が気にしておきたいのは、こういうことをやったのは、なぜ明治生まれのリベラリストだけだったのか、ということです。つまり、大正生まれ——たとえば丸山真男もそうですが——とか、昭和生まれの論客は、みな普通の戦後民主主義派になっていくわけです。けれども、津田のような態度をとったリベラリストは、明治生まれです。加藤さんによれば、美濃部達吉なども、津田と同じなのですが、もちろん、彼も明治生まれです。つまり、明治生まれのリベラリストだけがしばしば敗戦ということの抑圧の機制からある程度自由であったということを言っているわけです。  このことは、思うに、これは今の段階ではまだ非常に大まかなことしか言いませんが、戦争とか敗戦に関わるある困難は、とりわけ大正から昭和にかけての展開の中にあった何かと関係がある、ということを示唆している。先ほど明治、大正、昭和を考えた場合に、大まかにみれば、天皇との関係で「天皇の国民」から「天皇なき国民」を経て、「国民の天皇」へと移行していたと言いましたね。問題のポイントになるのは「天皇なき国民」から「国民の天皇」への展開に関係ある何かです。そういうものと戦争、敗戦というものが非常に結びついている可能性があるわけです。逆に言うと、明治の段階で、ある制度の思想的なベースをつくりあげてしまった人たちにとっては、戦争とか敗戦による、アイデンティティの屈折は、相対的に容易に乗り越えられる問題であった。それをも乗り越えられないのは大正・昭和に生きた人たちであったという可能性が出てくるわけです。  たとえば、これも全体の流れからするとちょっと細かいことになりますけれども、皆さんもよく知っている夏目漱石の『こころ』の中に、乃木大将が明治天皇の死に際して殉死したことに触れて、明治の精神が終わったという、有名な記述がありますね。そこで言われている「明治の精神」とは何なのか。この点から、明治のリベラリストにはあって、大正や昭和のリベラリストにはなかったものを見出すヒントは隠れていないか。漱石は、明治の精神を、乃木大将の殉死との関係で問題にしているわけです。ここでは、殉死ということが意味をもつような天皇との関係が問題になっているわけです。柄谷行人がかつてこの夏目漱石の部分に言及しながら書いていましたが、殉死するということは、天皇との関係が個人的《パーソナル》だということです。国民的な共同性の核となっている天皇との関係が、パーソナルな恭順でありえたような段階、それが明治ということなのです。殉死するということは個人的に帰依している、個人的に心服しているということです。このことは、明治のリベラリストが、敗戦に際して示した独特な頑固さと関係しているのかもしれない。  さて、ところで、今この話をしたのは、いわゆる戦後思想というものを考えるための通過点というか、そういうものをここで確保しておきたかったからです。 †戦中に戦後を生きた思想家[#「戦中に戦後を生きた思想家」はゴシック体]  戦後の知識人といわれる人の中で、ほとんど神格化されるまでに重要な人は、丸山真男ですね。その人が死んでしまったから余計に神格化されるわけですが、丸山という人が戦後どうであったか。あるいは戦後とか戦中どうであったかということを見ながら、先ほどの問題、つまり戦中における困難、それをある意味で欺瞞的に解消してしまう戦後という問題について考えてみたいと思うんです。  丸山真男は政治思想の研究家として実際、超一流の人だと思います。どういうことを戦中・戦後、特に戦争直後にやっていたかということをちょっとだけ言っておくと、丸山が戦中にやっていた仕事はこういうことです。近世封建社会、つまり江戸時代の中に近代を見出す作業をやっていたわけです。彼の考えでは、ファシズムというのは前近代的な現象なんですね。近世封建社会の中にすらあった近代というものをすくい出してみよう。そういう作業が彼の基本的な作業だったと思われます。  その彼が見出した、つまり近世の中にもあった日本の近代とは一体何であろうかというと、これはいろいろな言い方があって複雑ですけれども、煎じ詰めて言ってしまえば、あるいは一番重要な部分だけ言ってしまえば、これは丸山真男の論として非常に広く知られているけれども、要するに「自然」に対するところの「作為」の論理ですね。「なること」に対する「すること」と言ってもよい。自然から断絶したところの作為の論理というものが、彼の考えている近代的な要素なんです。彼に言わせれば、日本の思想、特に日本の儒教思想、たとえば朱子学的な思想というのは、基本的には自然の論理だけなんです。つまり、そこでは、自然の秩序と道徳の秩序——ノモスというか人間的な秩序——との間に決定的な断絶を見出さない。人間的な秩序もまた、なるようになるという世界ですね。しかし、丸山によれば、荻生徂徠の徂徠学を経由した展開の中で、こうした世界観から離脱する要素、つまり作為の論理というものが部分的にはあるけれども、出てくる。丸山はこう論じているんです。丸山の戦中の仕事をうんと煎じ詰めて要約すると、こんなところに基本的な特徴がある。  ここで「作為」とは何かということを少し考えておきたい。「作為」という言葉は、もちろん簡単な言葉ですけれども、ちょっと気をつけなくてはいけない。つまり、作為というものが可能であるための条件があるんです。作為の論理は、自己の内部で二重の立場が重層しており、そのことによって、自己が主体化していることが、成立のための条件となるのです。まず、自己がまさにそうなってしまうところの、経験的な事実の水準がある。それが、「自然」の水準にあたります。作為の論理が可能であるためには、こうした自己の事実性に対して選択的にかかわる他者の視点、他者の立場が、自己自身に内部化していることが必要なんです。作為とは、この自己に内部化している他者の立場から、自己の事実性を制御することですから。このような、他者の視点に準拠するからこそ、作為の論理は、「自然」との緊張関係に入り、ときに「自然」と逆立するわけです。  ところで、丸山は、ある座談会で、戦中の自分について、次のように述べているんです。つまり、多くの人は、敗けるとは思ったが、敗けたあとのイメージがわかなかったようだが、自分の場合は逆で、敗けたあとの日本については見当がついたが、敗けるまでの過程についてはよくわからなかった、と。この丸山の言葉に対して、吉本隆明がおもしろいことを言っている。吉本は、この言葉は、戦争期の丸山の、戦争に対する曖昧な位置を象徴しているのだ、と論じているんです。吉本によれば、これは、丸山が、戦争にのめりこんでもいなければ、それに抵抗もしていなかった、ということを示している。もし、戦争にのめりこんでいたならば、敗戦までのイメージは明瞭でも、敗戦後のことはわからないとなるはずだし、戦争に抵抗していれば、どちらのイメージもわかず、ただ共和制になるべきだという当為の意識だけがあったはずだ。吉本のこの論は、重要です。吉本の言う通りだとすると、丸山は、戦争に、肯定的にも、否定的にもかかわらなかったということを意味しています。要するに、丸山は、戦中にあって、既に、戦後を生きていたわけです。だから、敗戦後の日本のイメージだけが明瞭になる。 †中性国家とヨーロッパ[#「中性国家とヨーロッパ」はゴシック体]  丸山さんは戦争中は近世の政治思想史研究という形でやっていたわけですけれども、戦争直後にはどういう文章を書くかというと、たとえば特に有名なものといえば、一九四六年に書いた「超国家主義の論理と心理」です。これは、内容的に優れていたかどうかは疑問の論文ですが、少なくとも、丸山という人を特に有名にした論文です。戦中の仕事はある意味でただの学問なんです。ただの学問というのは近世についての歴史的な研究をしているだけなんですが、この戦後の「超国家主義の論理と心理」からは、いわば「現在」に対してコミットする思想的な文章になっていくわけです。  この文章の中で何をやっているかというと、もちろんこれは戦争中の彼の仕事の延長上で、作為の論理というものを日本のファシズムの論理に対置するという仕事をするわけです。作為の論理においては、内化された他者の視点を前提にして、自然に対抗する、そういう構造になっているんです。その他者の視点というものをどういうふうに理論上確保するか。彼はこういうふうに言うんです。「超国家主義の論理と心理」の中で、ヨーロッパの国家というのはいわばニュートラルな国家である、中性的な国家である、と主張する。それに対して日本の天皇制国家は、そういうニュートラリティがなくて、初めから内容的に色づけられている国家なんだと、丸山は言う。丸山によれば、日本の天皇制国家と違って、西洋の国家は、純粋にイデオロギー的に中立的であり、その立場から、さまざまな具体的な制度を構築している。こうした論でいくと、作為の論理が前提にしている他者の視点というのは、社会的には、中性的な国家という形態で具現されている、ということになるわけです。中性的な国家が、社会にとっての内的な他者の視点に対応し、可能な制度に対して選択的にかかわっていくわけです。  今のは理論上のことですが、彼自身が、日本に対して「作為」の論理においてかかわるときに、その論理の前提となるような、「他者」の立場をどのようにして現実性のあるものとして獲得していたのか。こう問うてみましょう。さっき言ったように、戦中の仕事の中では丸山という人は、日本の思想の中に近代を探すという作業をしていたわけだけれども、戦後の「超国家主義の論理と心理」というのはそういうふうにはなっていなくて、ヨーロッパ——場合によってはナチス——と日本のファシズムとを対比するわけです。つまり、この場合、作為の論理を可能にする他者の視点というのは、理論上は中性国家ですが、現実上はどこかというと、ヨーロッパなんですね。西洋にあるわけです。そういうふうに整理しておいていいんじゃないかと思います。 †理想の時代[#「理想の時代」はゴシック体]  今言ったように、作為の論理というのは、ある視点の落差というか、視点の二重性というか、そういうものを前提にしているんですね。つまり、「他者の視点」と「自己の視点」、あるいはより厳密には、「自己が想定している他者の視点」と「自己の現状の事実性であるところの自然の視点」という視点の落差を、作為が首尾よく成功する論理の核になっていると言っていいと思うんです。この視点の落差を時間上に展開すればどうなるかというと、未来における理想と現状における欠如という構造になるんですね。  私はオウムについて書いたとき(『虚構の時代の果て』)、戦後の五十年間を大きく二段階のステップにわけています。そのとき、戦後の最初の二十五年間というのは、「理想の時代」だと見なしうる、と主張しました。理想の時代というものの最もはっきりした思想的な対応物、それが、丸山真男に代表されるような戦後の進歩派という人たちですね。その戦後の進歩派は、われわれの社会が目指すべき理想の像を、非常にポジティヴに提起している。丸山の場合は、もちろん、それは、西洋風の市民社会という形になるわけです。  この「理想」との関係で、現状=現在というのは常に欠如——理想の状態の欠如——として意味づけられる。そういう構造になっているということを、とりあえずここで言っておきたいんですね。  戦後の民主派の思想というものを、今、丸山の論理に代表させてみたのです。丸山の思想のエッセンスを抽象してみれば、それは作為の論理というものになるだろうと。その場合、作為の論理が作動するためには、自己の現状に逆立している、あるいは自己の現状からいわば断絶している他者の視点というものを導入する、そういう経験と思考のスタイルというものを人に与えなくてはいけない。あるいは、自己自身の内部に、まさに自己自身の経験的な現在に対抗する他者の視点や立場がありうるということ、こういうことに、リアリティを持たせなければ、今言ったような思想というのは展開できないんですね。つまり、自己の現状と断絶したところの他者の視点を想定する。そういうことに、ある種の現実的な信憑可能性とか、説得力がなくてはならない。このような信憑可能性や説得力が確保されたときに、戦後民主主義の論理というのは展開可能になるんじゃないかと思うんです。だから、問題は、いかにしてその作為の論理を可能にするような(内的な)他者の視点というものが確保されていたのか、あるいはこうした他者の視点と事実的な自己の視点の落差というものはいかにして構成されているのだろうか、です。こういうふうに問題を立てるといいと思うんです。 †アメリカの善意[#「アメリカの善意」はゴシック体]  このように問題を立てると、戦争中の思想の空間あるいは言説の空間と、戦後の言説や思想の空間との断絶というものの核が、両者の間にどういった本質的な違いがあるかということが、だんだんはっきりしてくるのではないかと思うんです。これから言おうと思っていることは、単純なことなのですが、いきなり結論を言っても説得力がないので、少し回り道をしたいと思うんです。たとえば、民主派の流れとはちょっと違う流れ、あるいはもともとは民主派とほとんど同じ流れの中にいながら、今日ではちょっと逆方向に行っていると考えられている論者に、江藤淳という人がいる。  江藤淳に、「戦後知識人の破産」という題のエッセイがある。六〇年安保に関係して書かれた文章です。そこで、丸山と同じように代表的な革新派であるところの清水幾太郎が、批判されています。清水は六〇年安保が失敗した理由について文章を書いているんです。そのときに江藤が問題にしたのは、清水があることをまったく無視しているのがおかしいじゃないかということですね。  どういうことを無視しているかというと、清水は共産党がどうしたこうしたとか、そういうようなことをいろいろ挙げていくわけですが、江藤によれば、ほんとうはもっと重要な困難があったはずだというわけです。ありえた困難というのは何かというと、政府が警察力をもって国会議事堂の前に集結しているデモ隊を排除する可能性というのがあるわけだけれども、そのことについて清水が全然考慮していない。つまり、清水幾太郎は、政府が暴力的に強権を発動する可能性についてほとんど何も考慮していない。そういうところはいかにも脳天気だというふうに言うわけです。言いかえれば、清水は、時の首相である岸信介が非常な善意の人であることを、彼が、極端なことをしない、つまり、暴力をふるわない寛大な人であるということを、無条件に前提にしている。そういうふうに批判するんですね。  これを受けて、また加藤典洋が、彼を最初に有名にした評論「アメリカの影」の中で、今度はこういうふうに反論している。「江藤さんの言っていることは正しいかもしれないが、同じことは江藤にも言えるんだ」と。つまり、ご存じのように、江藤という人は、今日ではこういうふうに考えているわけですね。日本は、まず交戦権を回復して、完全な主権国家になることで、アメリカとの間でできることならば対等なパートナーシップを確立する、と。この江藤の論において、江藤が何を無視しているかというと、日本が対等な交戦権を持ったとして、このときアメリカが日本を重要なパートナーとして考えてくれる、という前提で考えているんですね。つまり、アメリカの日本に対する善意を無条件に信じている。そういう点において江藤も清水も同じであるというふうに、加藤は指摘するわけです。  さて、この指摘から僕らが暗示されていることはどういうことかというと、おそらくは日本政府が持っている善意や寛容に対する無条件な期待ということと、アメリカ合衆国の善意に対する期待というものが、少なくともある時期、ほとんど同じもの、あるいは少なくとも同じ形式の反復であったのではないかということです。  そういうことを前提にした上で先ほどの問題に戻れば、僕はこういうふうに考えればいいと思うんです。これはちょっと極端な単純化で、本当はすこし危険なんだけど、今日は論を進めなければいけないから単純化しますが、先ほど言った戦後知識人が作為の論理をもってある種の日本の現状に対する批判的見地を持つ、そういう作為の論理を可能にする他者の視点を、いかに、どのような形で現実的なものとして確保したのだろうか。そういうことが問題だということを言っているわけです。そのときに、その作為の論理を可能にする他者の視点というのは、象徴的に言えば、それはアメリカなんです。あるいはアメリカによってシンボライズされていた何ものかなんです。そういうふうに言っていいと思います。  ちょっと先走って仮説を言っておけば、こういうふうに私は思うんです。つまり、今問題にしている根本的な問いとしては、次のことでした。戦中には、思想を表現することの本質的な困難や不可能性があり、それを人々は体験していた。それが、戦後という空間の中で、解消してしまう。両者の間で、何が違っていたのか。このように問いを立てたわけです。思想の積極的な表現を可能にしていたもの、それは、作為の論理を可能にしていた(内部化された)他者の視点だと思うんです。では、その他者の視点が、何によって積極的な信憑可能性を確保したのか。端的に言えば、アメリカこそが、そうした他者の視点の社会的な現実性を与えていたのだと、そう言ってしまっていいのではないか。  そうすると、アイロニカルに言えばこういうことになる。しばしば戦後の日本の占領政策の中でアメリカが日本に民主主義を根づかせるということを一つの大義名分にしながら、実際にはかなり非民主的なことをやった、という。その顕著な例が日本の言論界に対する検閲ですね。アメリカは日本に自由主義や民主主義を根づかせようとしていたのに、日本の言論に対する非自由主義的な介入をしたことになる。しかしさらにより一層本質的な意味では、アメリカに精神的にも、あるいは制度的にも占領されたということ、つまりときに検閲をされることもやむをえないような形で占領されたということこそが、戦後における思想の饒舌というものを可能にしていた、とも考えられるわけです。 †六〇年安保の構造[#「六〇年安保の構造」はゴシック体]  超越的な他者としてのアメリカへの決定的な依存ということが、まず戦後の日本の言説空間の根本条件として考えられる。これは当たり前といえば当たり前のことですよね。しかし、ここでちょっとだけ気にしなくてはいけない。そういうふうに言うならば、たとえば六〇年安保はどうなるかということですね。皆さん、六〇年安保のとき、ほとんどの人は生まれていないかもしれないけれども、僕も生まれて二歳ぐらいですから。先ほどの清水さんの話との関係で出てくる六〇年安保。このときに、かなり大衆的な気分としては反米ということがあった。つまり、一見したところアメリカに日本人の精神が依存しているどころか、むしろ基本的な風潮としては反米だった。しかも、六〇年安保こそ、戦後の民主派の知識人が一番活躍した、そのときではないかと。七〇年安保はそういうふうにはいかなかったけれども、六〇年安保について言えば、完全にそういって差し支えない。この間のオウムについて書いた本の中でもちょっと書きましたけれども、「理想の時代」における思想的なムーブメントのピークは、やっぱり六〇年安保の運動にある。そのときにまだ戦後的な理想、つまり戦後の民主主義的な理想というのが非常に生きている。その戦後の民主主義的な理想のベースに反米があったのではないか。そういうふうに考えたくなるんですね、六〇年安保ということを考えるときに。これは、僕の今言っていることに反しないだろうか、矛盾しないだろうか。そういうふうになります。  結論的に言えば、私の考えでは、六〇年安保において表明される反米こそ、日本がアメリカを中心とした世界システムの中にあり、まさにそれゆえにナショナルな共同体たりえたことの決定的な証拠だと思うんです。ただし、そのシステムの中で、従属的でマージナルな位置にいたがために「反」アメリカになっているわけです。日本というものを一種の国民的な共同体にする、つまり世界の中の一個のローカルな国民としてつくりあげる。その日本を一つのローカルな国民として承認する、そういう視線はどこにあったかというと、日本を世界のあるマージナルな位置に位置づけるところの普遍的な視線、それがあったから日本は一つの国民的共同体になりえたと考えたい。その普遍的な視線こそは、もちろんアメリカを中心とする世界システムを捉える視線だったわけです。  この場合、反米とは何かというと、僕の考えでは、日本が世界システムの中の周辺だということの印なんですね。日本がアメリカを中心とする世界システムの中のマージナルな部分に編入されたということを象徴的に示すビジュアルな印というのは、マッカーサーと天皇の並んでいるあの有名な写真ですね。これは、何度見ても何となく気持ち悪いものがある。とても正視にたえないものがある。よく言われることですが、日米関係というのは、アメリカを男、日本を女とする一種の性的な関係にたとえられるわけです。言ってみれば、マッカーサーと天皇の写真というのは、日本のアメリカとの結婚記念写真なんですね。その中で、日本がアメリカを中心とする世界システムのマージナルな部分に生き続けられる。中心ではなくて、マージナルということが重要です。  このことを考えるのに、ベネディクト・アンダーソンのナショナリズムの理論がヒントを与えます。彼が書いた植民地ナショナリズムあるいはクレオール・ナショナリズムの説明が役に立つ。植民地においてナショナリズムが盛り上がるときには、通常これは宗主国からの独立運動というものを喚起するわけですよね。その意味で宗主国と植民地は対立しているわけです。しかし、他方で、アンダーソンによれば、植民地のナショナリズムというのは本質的な部分で宗主国に依存しているということも言えるんですね。  そのことを示す最も顕著な事実は何かというと、しばしば植民地のナショナルな共同体というのが、もともと宗主国がつくった植民地統治のための行政上の区画にそって生まれてくるということがあります。それは、基本的には、植民地統治のためのまったく便宜的な境界線にすぎない。けれども、しばしば植民地の国民的自覚というのは、もともと宗主国のつくった便宜的行政的な境界線にそって生まれてくるわけです。これはもともと植民地統治をするときに現地の人たちの言語とか文化とか、そんなものをいろいろ調査して、「この辺にちょっと断絶があるぞ」てなことでつくっているわけではない。しかし、にもかかわらず、植民地ナショナリズムがしばしばその便宜的な線にそって、自覚を持ってしまう。これは、植民地ナショナリズムが宗主国に対抗しているにもかかわらず、宗主国による統治によってこそ産出されたことの印なんですね。境界線だけではない。実は植民地ナショナリズムというものをリードする思想、そういうもの自身が宗主国で生まれた理念から借り受けたものです。しばしば、独立運動を指導する者は、宗主国が確立した学校教育の中でのエリートであったり、さらには、宗主国への留学経験者であるのは、このためです。  僕の考えでは、六〇年安保というのは構造的にこれと同じですね。つまり、日本は現にアメリカに占領されていたこともあったわけですから、言ってみれば六〇年安保というのはアメリカの占領に対する日本の独立運動なんですね。安保条約が続くかぎり日本の事実上の占領状態は終わらないのではないかと考えた民衆の運動としてあるわけです。しかし、民衆の反米感情を含めて、六〇年安保を駆動した思想は、なおかつアメリカによる統治に深いところで依存していたという可能性が、否定しようもなくあるんですね。ちょうど植民地ナショナリズムがいかに宗主国に反抗していても宗主国による統治に依存しているのと同じように。 †ウルトラマンとしてのアメリカ[#「ウルトラマンとしてのアメリカ」はゴシック体]  日本がアメリカに象徴されるようなシステムの中で、従属的な場所を配分される。そのことによってこそ、かえって国民的共同性というものを自覚する。そういう構造が出てくるんだということなんですね。そのことをシンプルに象徴しているのは、『ウルトラマン』ですね。評論家の佐藤健志という人が九二年ぐらいに書いた『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』が、この点を示唆している。ウルトラマンなんて子供の見るもので、他愛のないものだと思うかもしれないけれども、実はここに重要な思想的な賭けがあったと佐藤健志は言っています。  さっき僕は戦後知識人が、あるいは江藤淳も含めて、アメリカに対する無条件な善意に依存していると言いましたね。そのことの反作用として、日本はアメリカの日米安保の傘の中に組み込まれてマージナルなポジションを得るわけです。それは、アメリカを中心とするような世界システムの中での従属的なポジションというのを与えられるということと同じことです。その場合、言ってみれば、女である日本がアメリカという男を無条件に信じるという関係がどうしても必要になってきます。この関係とウルトラマンシリーズにおける人類のウルトラマンへの依存関係が同じものだというのが、佐藤健志が言っていることの核ですね。  大体、まず普通に皆さんも知っていると思いますが、僕も子供のときから疑問に思っていましたけれども、ウルトラマンは単なる善意で地球の人類を助けてくれるんですよね。これはとてつもない善意だと、私は思います。皆さん、知っていますかね。オタッキーな方はよく知っていると思いますけれども、ウルトラマンシリーズの一番最初のウルトラマンは、どういう経緯で地球人を助けるようになるのか。ウルトラマンって別の星の人でしょう。もともと、特に地球と関係あるわけではない。知っている人も多いと思いますが、これは交通事故がきっかけなんですよね。ウルトラマンシリーズの第一回目でそのことが描かれていますけど、ハヤタとかいう人が、宇宙パトロールをしているところへウルトラマンがぶつかって事故になり、そのハヤタという人が、死亡してしまうんですよ。それで、これはまずいと。そこでウルトラマンは一つしかない命を二人で共有することになるんですよね。だから彼がウルトラマンになるわけですけれども、そして、それ以降、彼は善意で地球人を助けてくれるというような構造になっている。たまたま一回の交通事故がそんな高くついたというような話なんですけれども(笑)、これは考えてみるととんでもない理由づけだと思います。というのは、僕は子供心にも思いましたけど、ウルトラマンは地球人のために怪獣たちをバシバシやっつけますが、怪獣もたいてい宇宙人ですよね。そうしますと、どうなんでしょう。なんで地球人の肩ばかり持つんだろうかというような感じがするわけですよ、第三者であるウルトラマンがね。その理由は、さっき言った交通死亡事故なんですよね。しかし、怪獣を何匹殺してもそれほど気にしないような男がですよ、ちょっと交通事故で——しかもこれは仕方がないような事故なんです——失敗したことがきっかけで、地球のために戦うようになるでしょうか。そんなことでそこまで良心の呵責を覚えるだろうかというような疑問が、私はいたしますね。だから、それはとんでもない話だと思うんですね。  私が子供のときにウルトラマンシリーズを見たときに思った疑問点というのはいろいろあるんですけれども、こういう感じもしましたね。皆さん、今、想像してみてください。怪獣が出てきたとします。地球人が一生懸命攻撃してもなかなか手ごわくてかなわないほど強い怪獣が出てきたと。そこへウルトラマンがやってきたとします。これを、何も知らない地球人はどう思いますかね。僕はこう思いますよ。これはやっかいなことになったと。怪獣が二匹になっちゃったって思うんですよ、普通だったらね。ところが、その怪獣は、どういうわけか一匹の怪獣だけやっつけて、どんどん去っていってくれて、「あ、ついてるなあ」みたいなことになるわけです。地球人はウルトラマンとはっきり契約を交わしたわけでもないのに、いつこいつが俺たちの味方だってわかったんでしょうかというようなことが、とても不思議に思ったりするわけです。  ともかくウルトラマンは無条件の善意によって地球人を守ってくれる。これと同じような善意をアメリカに期待しなくちゃいけない。実際は、これは単に関係の形式が似ているというだけではなくて、佐藤健志さんは、このように考えてよい根拠をいろいろと挙げている。これは有名な話ですけども、ウルトラマンのシナリオライターの金城哲夫さんは、沖縄の人ですね。これは重要なことです。というのは、沖縄は一九七〇年に復帰しています。ウルトラマンシリーズの初期は一九六〇年代の半ばからちょっと後半ですね。まだ沖縄の本土復帰前です。金城さんは非常に強い琉球ナショナリストなんですね。しかし、琉球は日本以上に小さな、言ってみれば弱い国なんですね。だから、琉球は国際社会の中でのポジションをうるには、善意の日本に期待するしかない。佐藤さんによれば、金城さんは、弱い琉球とそれを善意によって立て直してくれる日本との関係を、ウルトラマンと人類の関係に見立てていた。これとまったく構造的に同じ関係が日本とアメリカの関係になる。日米安保条約というのはこういう片務的な関係なんですね。  「ウルトラマン」の最大の難点、どんな子供が見ていてもそのうち気づいてしまう難点は、ウルトラマンによって助けてもらうわけだから、そもそも人類のほうに軍隊なんか要らないじゃないか、ということですね。たとえば、科学特捜隊、科特隊というのがいて、いつも怪獣と戦うんだけれども、ほとんど役に立たないんです。子ども心にすら、科特隊は何のためにいるのだろうと、非常に疑問に思うんですね。おそらく製作者側すらこうした疑問を共有しており、科特隊が自身の存在理由がわからなくなり、アイデンティティ・クライシスに陥るといった回がある。  科学特捜隊というぐらいですから科学的な兵器を使って怪獣と対抗するんです。しかし、新兵器は、たいてい、全然怪獣に通用しないんですよね。だから、最終的にはウルトラマンがやってきてやっつけちゃうわけです。そうすると、科学特捜隊は「確かに俺たち一体何のためにいるんだ」と、特に科学特捜隊の中で、イデ隊員といったか、科学兵器の開発の専門家は「俺の武器で勝った試しがあったかな」という感じになってくるんですよ。だんだん「俺なんかもう……」という感じになってくるんです。さすがにそういう疑問点に答えるシーンがあって、ついにそのイデ隊員だか何だかが腐っちゃうんですね。「どうせ俺が何かつくったって、ウルトラマンがやってくれるんだから、俺なんかいらねえよ」みたいなことを言い始めるんですよ。そうすると、ハヤタ隊員がなだめるわけですよ。「いや、そんなことはない」とかいろいろ言うんだけど、どう考えてもそんなことあるわけですけれども。それで、その回はどうなるかというと、最終的な部分では、イデ隊員のつくった光線銃みたいなものが功を奏するようになっています。その回もウルトラマンはもちろんやってくるんです。ウルトラマンが怪獣をおおむねコテンパンにやっつけて、あと一発たたけば死ぬぐらいまで来ているんです。そこのところでウルトラマンは、わざと怪獣を殺さず、イデ隊員に、自分で作った光線銃で怪獣にとどめをささせてあげるわけです。すると、イデ隊員は「俺がやったぞ」とかいって喜び、自信を回復する。これはまるで、本当は親が全面的に助けてやっとできているのに、要所要所を子ども自身にやらせることで、子どもに自分でやっているという達成感をもたせて、少しずつ自信をつけさせる、というあのやり方と同じですね。 †主婦としての日本[#「主婦としての日本」はゴシック体]  いずれにしても、日米安保条約のもとでの日本とアメリカの関係をある種戯画的に表現している。逆に言うと、ちょっとさっきの話に戻れば、これは敗戦という事実に基づいているんですね。こういうことに対してどうしても欺瞞的にならざるをえないということが、敗戦という事実を抑圧するということなんです。今言った、戯画的な、科特隊とウルトラマンの関係というのは笑いごとではなくて、本当に日本とアメリカの関係でもあるわけです。それで今度は逆に「普通の国にならなくちゃいけない」とか言って、軍隊を持ちましょうみたいな話にもなってくる。それでちょっと別の意味での敗戦に対する抑圧があるわけですけれども、ともかく今みたいな事実に対して欺瞞的な隠蔽を図る、忘却をするということが抑圧ということです。  言いたかったのは、とにかくウルトラマンシリーズのような大衆的なサブカルチャーの中にも、すでに日本の戦後というのがアメリカに象徴されるような審級を、あるいはアメリカに象徴されるようなある超越的な他者を、準拠点としながら、自身を位置づけるという関係が見出されるということですね。  戦後の日本のある時期以降、特に一九六〇年代というか、昭和三十年代と言ったほうがいいかもしれないけれども、昭和三十年代から四十年代前半にかけての時期というのは、高度成長期と言われる時期ですね。先に「昭和〜代」という表現が意味をもちうる時期というのが、高度成長期までの時期にあたるわけで、それが終わると、「昭和〜代」という表現の有意味性が急速に低下してしまう、ということはここで少し念頭においておいてもよいことです。この日本の高度成長は、アメリカへの従属によって、もちろん経済的条件もそうですが、むしろカルチュラルに、あるいは精神的にアメリカに依存しているという事実によってこそ、もたらされた。そういうふうに言ってもいいんです。  それはどういうことかというと、さっき、作為の主体をつくる、ある超越的な他者の視線というのを想定するということを時間軸上に投影すれば、「理想=未来」に対する「現状=現在」の欠如という構造が得られるんだという話をしましたね。この構造を今の議論の中にそのままシフトすれば、理想を具現するのは、もちろんアメリカなんです。つまり、「理想」と「現状」の欠如を媒介にした関係は、アメリカによって理想化される事柄と日本の現代の関係ということになる。実際、日本の戦後の前半部分は大衆的な理想の焦点に、アメリカがあるわけです。たとえば、吉見俊哉さんが、最近、アメリカナイゼーションについて論じており、それが参考になります。その中で彼も言っていることですが、一九五〇年代以降、民主主義とか共産主義といった知の水準での理想ではなくて、もっと大衆的な理想の焦点は何が象徴したかというと、家電製品ですね。この家電製品はアメリカ的なるものと深く結びついている。家電製品が表現している価値というのは、要するにアメリカ的ライフスタイルということです。ですから、たとえば一九五〇年代、六〇年代の広告のコピーを見ると、いたるところにアメリカ的とかアメリカ式という言葉が出てきます。こうしたアメリカ的なものを日本において先取りし、リードしたのが、松下ですね。つまり「ナショナル(国民的)」です。  しかも、民主主義のような理念の上での目標と、家電のような物質的な目標が、ともにアメリカにおいて表象されている。端的に言えば、戦後にとって、民主化とは家電化なんです。あるいは、一九五〇年代ぐらいの段階だと日本とアメリカとの間の技術の格差はいかんともしがたいので、どうしてもアメリカに追いつこうというような構造に具体的になりますけれども、六〇年代になると部分的に日本の技術もかなりのところになってくる。その頃になると、今度、広告の中に多く出てくるコピーはどうなるかというと、「アメリカにも劣らない技術力を有する日本」といった含みになってくる。この場合、ときに、日本というのはカタカナで「ニッポン」などと書いてある。これは吉見さんが注目しているんだけれども、要するになぜカタカナで書かれるかというと、「日本」であることをアイデンティファイする視線が、国内にあるのではなくて、海外、世界のほうにあるからです。もっと言えばアメリカのほうにあるんですね。アメリカの視線から、日本の技術力というのが承認される、という構図になっている。アメリカに帰属する承認の視線によって日本が一種の民族的あるいは国民的なアイデンティティを確立するという構図が、シンプルな形で、家電製品の製作や、あるいはそれに関わるコピーの中に既に表現されているわけです。  アメリカに承認される日本というものを象徴的に代表するのが、家電製品だと言いましたね。特に家電を使うのはだれかというと、主婦です。つまりアメリカに承認される日本というものを代表するのが、家電を使いこなす女性なんですね。あるいは、日本において理想的アメリカ的ライフスタイルを代表したのはだれかというと、これは皇室ですね。特に昭和三十年代の初期に、美智子様の結婚がありましたね。美智子様の結婚以降、皇室の主役は天皇でも皇太子でもなく、美智子様になるわけです。皇太子一家というのは、アメリカ的ライフスタイルを日本において理想的に実現している家族で、その中の主役が美智子様だったり、大衆的には主婦である。つまり、ここにアメリカという男性に承認されるところの従属的女性としての日本という構図が反復されているわけです。あるいは、天皇すらもある種女性的なものとしてイメージされる。たとえば植物の研究にいそしむ天皇陛下みたいなね。そういう構造の中に、日本の全体が女性化される。   [#小見出し]4 一九七〇年代の転換点 †ゴー・バック・ヤンキー[#「ゴー・バック・ヤンキー」はゴシック体]  さて、こういうふうに、とりあえず戦争における占領期から高度成長期ぐらいまでの段階においてどういうことが起きたかということを、ちょっと極端に単純化してみました。どういう変遷の中で言語というものが編み込まれていったか、あるいは思想や思想のベースになるような我々の体験がどのように編み込まれていったかという話をしてきましたが、さて、この構造は、実は、ある時期から大きく転換を迎えるように思います。その「ある時期」というのは、おそらく一九七〇年代のごく初頭の頃です。そのことについて、今日はきっちり話すことはできないけれども、少しだけ述べておこうと思います。  たとえば、先ほど、女性的なる日本、主婦としての日本、美智子様に代表されるところの日本という話をしましたね。さて、そのことを考えた場合に、一九六五年に小島信夫の書いた、たいへん有名な小説ですけれども、『抱擁家族』が注目に値すると思うんですね。これは、アメリカという問題を主題にした小説だと言えると思います。『抱擁家族』の中では、主人公の奥さんがアメリカ兵との間で不倫、姦通を行う。これが作品の基盤になっている関係です。つまり、アメリカ人に寝とられた女、アメリカ人に寝とられた妻という構図は、先ほど言った男性的アメリカと女性的日本の構造を非常に明確に反復しているわけです。  しかも、こうしたことが、高度成長ということと結びついているということも、この小説は暗示しています。このあたりは、また加藤典洋さんが『アメリカの影』でうまく論じています。たとえば、この小説に家政婦が出てくる。小説は、この家政婦が「来てからわが家は汚れている」といった一節から始まる。家政婦がいるということは主人公の家族がそれくらい豊かだということですね。つまり、高度成長の恩恵を被って非常に豊かになった日本人ということの代表になるわけです。この家政婦がある種エセ進歩的な人で、奥さんを唆すんですね。旦那様ばかりでなくて、奥さんも今どきの開けた思想をもたなくてはいけない、なんていう。だからアメリカ人との危ない遊びなんかもしなくちゃいけないんだ、してもいいんだみたいな、そういう自由な気風というか、かなり歪曲された自由主義の担い手として、しかもアメリカ的な生活というものを何となく奥さんに吹き込む。そういう立場として出てくるわけです。  そうすると、この小説は、今言った一九六〇年代に成立していたアメリカと日本とのある種の関係というものを象徴的に表すような構図になっている。しかし、この小説の中心的な主題は、こうした関係から離脱にこそあるんですね。結局、主人公は奥さんがアメリカ兵と不倫をしているという事実を知り、ショックをうけるわけですが、結局どうなるかというと、最終的に三人で直接に会って話し合いをもつ。主人公が通訳をしながらいろいろと言うわけです。そして、彼は、妻とアメリカ兵の双方の言い分を聞くわけです。そうすると、奥さんの言うこととアメリカ兵の言っていることが、ことごとく食い違ったりするわけです。最後に、奥さんのほうが「ともかく私は」と言うわけですね。「こうなったことに対して私としてはある責任を感じるけれど、あなたはどう思うか」とアメリカ人の兵隊に聞く。それで、そのことを主人公が米兵に通訳する。すると、米兵は何と答えるかというと、「自分は何も責任を感じない。自分は両親とアメリカ国家以外のいかなるものにも責任を覚えないんだ」と、そういうふうな答えを言って、この不倫について何の責任も覚えないと言う。そうすると、奥さんは、こういう米兵に対して、心底軽蔑するというような言い方をする。それから、主人公は、三人が会っていた店を出ようとするときに、この米兵に対して、自分でも思いがけない言葉をはいてしまうんですね。「ゴー・バック・ヤンキー」と。  とりあえずアメリカと日本との間の、そのときまでの一番オーソドックスな関係を起点に置きながら、そこから何か離れていこうとする、そういう指向が、『抱擁家族』という小説に表現されているわけです。 †母の喪失[#「母の喪失」はゴシック体]  この小説を重く見て、考え抜いた思想家が、先ほども何度か言及した江藤淳ですね。江藤淳は、『抱擁家族』(一九六五年)が出たそのちょっと後の六七年に書かれた『成熟と喪失』という非常に有名な評論の中で、この小説を取り上げています。この『成熟と喪失』というタイトルは、この評論の結論をはっきりと要約している。何を喪失したかというと、象徴的には母ですね。成熟は何かというと、父的なるものへの成熟ということなんです。  たとえば、この小説について江藤は次のように論じている。主人公は、妻との間のある自然な関係、妻との間の自然な空間というもの、あるいは、もうちょっと言えば、女性的あるいは母性的な空間、そういうものから疎外されている、と。つまり、妻との自然な関係とか、母性的なものを喪失していると。そういう状態を、江藤はこの作品に読み取るんですね。江藤は、この時期の日本の小説の中で、母すなわち自然の喪失ということが非常に重要なテーマになっているんだと、そういうことを問題にする。しかし、自然の喪失とか母の喪失というのはゆゆしきことだが、「災い転じて福となす」チャンスとなりうるというのが、江藤のこの評論での主題ですね。  母の喪失、自然の喪失こそ、父親的あるいは男性的な大人への成熟の絶好のチャンスたりうるというのが、江藤の考えなんです。簡単に言えば、母性的な自然との伝統的な関係から離脱して、近代的な大人になる決定的なチャンスだみたいな、そういう考え方をするわけです。『アメリカの影』を書いた加藤さんが、この小説に対してもう少し微細な構造を読み取るべきだといって、江藤の読み方に対して反論しているんですが、ここはそうした細部のデリケートな部分はおいておきます。むしろ江藤が考えていることに即してものを考えたほうがわかりやすいでしょう。つまり、ここに母性的、母的なるもの、あるいは自然的なものの喪失ということが描かれていて、このことと相関して、それまでのアメリカと日本との関係というものに対する異和が孕まれるようにもなってきた。そういうふうに読んでおきたいと思うんです。  少し脚注的なことを付け加えておきます。これから言うことは、蓮實重彦が言ったことと関係あります。『抱擁家族』は家族についての小説ですけれども、家族についての大衆的なイメージを小説以上に表したものに、今日では死に絶えてしまったホームドラマがあります。ホームドラマは、一九五〇年代かあるいは六〇年代後半ぐらいに一世を風靡していくわけだけれども、ホームドラマより前に、映画に出てきている家族イメージがありますね。そういうもので典型的なものは、一般には二種類あって一つは「母もの」というやつですね。「母もの」というのは、大体生き別れになったお母さんを求めて、といった話で、かなりパターン化した、いわば低俗なものです。もう一つは「小市民映画」と言われる部類。これは、典型的には、誰でもよく知っている皆さんのイメージを言えば、小津安二郎の映画ですね。母ものにしても小市民映画にしても、ホームドラマと比べた場合に、あるズレがある。たとえば、小津安二郎の映画を考えてみればいいんですけれども、小津安二郎の映画では、娘の結婚がしばしばテーマになるんですね。そのときに、娘と父の関係というのは妙に密接ですね。ほとんど近親相姦的な関係があるのではと思うような、そういう空間がある。つまり七〇年代より前の、たとえば六〇年代前後ぐらいまで盛んにつくられた小津安二郎の映画を見ると、母あるいは女というものを核にした母性的な、あるいは近親相姦的な空間があったんです。これがどうやら遅くとも七〇年代ぐらいになったらほとんど失われてしまう。そういう構造もある感じがします。このことと、江藤が問題にした母、自然の喪失という問題とは、もしかしたら平行性があるかもしれない。 †アメリカとの再遭遇[#「アメリカとの再遭遇」はゴシック体]  ともあれ、僕の言いたいことは、六〇年代末期ぐらいからアメリカと日本との関係に微妙な違いが起きているかもしれない。そして、その違いは江藤の感覚で言えば、母あるいは自然の喪失ということと結びついている。江藤は、『成熟と喪失』の評論の中では、母の喪失が近代的な父性への確立へとうまくバトンタッチされればいいと考えたのだけれども、実際にはそうならなかった。そこに江藤の思想的な苦悩の源泉がある。  そうすると、どうなるかというと、失われた母すなわち自然を補う、その欠落部分を補うものが、江藤淳のその後の思索の中で探し求められていく。それはまずどういうものになるかというと、たとえば当時江藤が「自分の書いた中で最も重要な作品だ」と言った『一族再会』という作品に従って言えば、失われた自然にかわるものが「血」ですね。「血」の同一性というのは自然の同一性とはちょっと違う。血統というものは、たとえば王権とか天皇制なんかを見れば明らかなように、やがてすぐに血統の正統性ということをベースにして国家というものにつながっていく。その「国家」ということを具体的に提起したのが一九七六年から全部で五巻にわたって書かれた『海は甦える』という江藤の作品です。  つまり、もう一度整理すれば、自然=母があって、江藤からすれば、それが本来は、近代的な男性的主体に置きかわるはずだったんだけれども、そうはならなかった。母を置き換えるものが、最初は血です。ついで、この血を媒介にして、それが国家に置き換えられる。こうした転換の果てに江藤が見出すものは何か。それが、実はアメリカなんですね。江藤淳がアメリカの必要を決定的に自覚するのが、むしろこういう転換を経てから、つまり七〇年代になってからです。  つまり、僕の言いたいことはこういうことです。先ほど言ったように、日本の戦後はある意味で自明ですが、アメリカへの従属ということによって形づくられていった。しかし、そのアメリカへの従属というものが単に偶然的な政治的な力学としてではなくて、日本人の精神の構造の維持のために必要だと江藤が感じるようになったのは、むしろかなり後になってから、つまり七〇年代になってからなんですね。その場合、江藤淳が求めているアメリカとの関係は、もちろん対米従属ということではなくて、理想としては日米の対等なパートナーシップにあるわけです。  が、そういうふうにはいかないことは江藤がいちばんよくわかっている。それが江藤のジレンマですね。つまり、日本がナショナルな政治的アイデンティティを確保するためには、アメリカとの関係が対等でなければならないけれども、しかし日本の安全保障、セキュリティということを考えると、対米従属というか、アメリカの善意に頼るということは避けがたい。一方は対等でなくてはならず、一方では従属するしかない。このことをとにかく根本的に重要な事実として引き受け、そこから出発するしかない。これが江藤の基本的な考えです。  加藤典洋の『アメリカの影』は、江藤淳が田中康夫の『なんとなくクリスタル』(一九八〇年)という作品をものすごく高く評価したという事実をどう考えるかということから考察が始まっているんですね。『なんとなくクリスタル』は当時ほとんどの批評家からくだらない作品というふうに言われたんだけれども、江藤だけが評価した。それに対して、江藤は、もうちょっと普通は評価されやすい村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(一九七六年)という作品を、批判した。この江藤の一見矛盾しているようにみえる二つの評価の間には、数年しか時間がない。これをどう考えるか。江藤にとって、二つの作品の相違はどこにあったのか。結論的に言えば、田中康夫の『なんとなくクリスタル』という作品は、今言った日本の置かれたジレンマ状況というものを直視しており、したがってこれを引き受けるという覚悟で書かれている。そういうことに江藤は感服したわけですね。 †執拗なる自然[#「執拗なる自然」はゴシック体]  今度は、丸山真男の仕事を、ちょっと見ておきたいと思います。江藤は一九七〇年ぐらいを境にして自然の喪失という事態からものを考え始めて、そこから日本とアメリカの新しい関係ということについて深く考えざるをえなくなったという話をしましたが、これに対して丸山真男は非常に一貫した仕事を続けているように見えるけれども、実は丸山真男というものもきっちりと見ていくと、一九七〇年あたりで——あるいは本当は一九六〇年代から少しずつ進行していたわけなんだけど——、重要な転換をしていると思うんです。その転換を如実に示しているのが、「歴史意識の古層」とか「政治意識の古層」という、「何々の古層」という論文です。特に「歴史意識の古層」というのが一番よく知られている論文です。この中で、丸山真男は、日本文化は決して消えることのない基底部によって規定されてきた、と論ずることになるんです。この基底部を、彼は比喩的に「執拗低音」と呼んでいます。  まず表面的にすぐ見てとることができる点から指摘しておくと、丸山の言ったことは、江藤が見ていたこととまったく逆なんですね。江藤は一九七〇年ぐらいを境に、高度成長を経た後、日本が自然すなわち母を喪失したという事実を発見したんです。それに対して丸山真男が執拗低音と言っていることは、結論を先に言えば、まさに「自然」なんですね。江藤はなくなったと言っている自然、それを、丸山真男は日本文化の中の消しても消しても消しきれない執拗低音として見出す。そういう関係になっているんですね。  丸山は、古代に溯りながら——具体的には古事記あたりを典拠にして——主張するのですが、自然というのは、一口で整理して言えば、「つぎつぎとなりゆくいきほひ」という言葉に要約されます。これは、「なる」と「つぎ(つぎ)」と「いきほひ」の三つに分解されます。「なる」というのは、「なりゆき」のなるであって、自ずから生ずる生成を指しています。また「つぎ」というのは、つぎつぎと生ずる継起のことであり、「世継ぎ」というときの「継ぎ」がこれです。そして、「いきほひ」というのは、現在を推進力として、あらたな成りゆきが一方向的にくりかえされることで、「時勢」というのは、こうした「いきほひ」に関係した語である、と主張されるのです。要するに、これは、先ほど問題にした、「作為」の論理の対立項としての「自然」の原理なんですね。こうした「自然」に立脚する態度を、丸山は日本文化の消えない基底部として抽出したわけです。  そうすると、もともと丸山が最初に考えていたことから、はっきりしたシフトがある。丸山はもともと、先ほども言いましたように、日本の文化の中に近代の萌芽を、作為の論理につながるものを見出そうとしていた。ところが、最終的にやったことはどういうことかというと、日本の文化の中には作為ではなくて、どうしても消えない自然がある、という発見です。  先ほど、私たちはこういう仮説に立ったんです。戦後民主主義の持っている啓蒙とか批判というものは、作為というものを可能にしてくれる超越的な他者の視点に依存している。その他者の視点の社会的なリアリティは、アメリカが象徴するような他者によって与えられる。そういう仮説に立っているんですね。  すると、今言った丸山の変節というのはどう見えてくるか。丸山が最後に見出したことは、自然と拮抗する作為の場所というものがもはや存在しないということです。自然との間に緊張関係を持って拮抗する作為のための超越的な視点の場、そういう超越的他者というものが日本の文化にとって有意義なものとしてもはや存在しないかもしれない、そういうことを言っているんですね。  超越的他者というのは、具体的にはアメリカとの関係の中でリアリティを確保していた可能性が高いというのが私の仮説ですから、丸山の議論の展開の知識社会学的なベースというのは何かというと、アメリカとの関係がどうも大きく変質したかもしれないということですね。ある時期から、アメリカが超越的な他者の視点を社会的にリアリティのあるものとして発効させる審級として、もはや機能しなくなってしまうわけです。 †ウルトラマンの挫折[#「ウルトラマンの挫折」はゴシック体]  ついでに言っておけば、ウルトラマンシリーズもまた、一九七〇年あたりで、挫折します。具体的に言えば、金城さんがシナリオを書かなくなる。彼は沖縄に戻って、琉球ナショナリズムのための活動をするわけですが、結局、不遇の死を迎えることになる。このことは、金城さんが理想としていたことを、ウルトラマンに託して表現することが、七〇年頃には、むずかしくなったということを示しているように、思います。  先ほど、「ウルトラマン」と地球人の関係に、日米安保条約的な関係(そして日本と沖縄の関係)が表象されている、という佐藤健志さんの考えを紹介しましたね。この説に立脚するとすれば、ウルトラマンシリーズの、あるいは金城さんの、挫折は、日米安保を自明なものとして支えていたような、日米関係の心的な基盤のようなものが、大きく変化し、失われつつあるかもしれない、ということを暗示しますね。  初期ウルトラマンシリーズはどこで挫折しているのか。それは、先ほど僕がちょっとばかにしたようにいった問題、つまり、ウルトラマンが地球人を守ることにどういう必然性があるのだろうかという問題に対して答えられなくなってしまうからですね。それで、物語の中でも宇宙人に反論されたりして、論破されてしまったりするわけです。だいたい、僕は思うに、宇宙からきたバルタン星人なんかをつぎつぎと殺しちゃうというのは、人道上たいへん問題です。というのは、これは難民がきたときに端から殺すのと同じなんですよね。いかにパスポートも持っていない難民であろうと、来たらいきなり殺すというのはめちゃくちゃだと思います。ウルトラマンシリーズというのは、考えようによってはとてつもなく暴力的な地球人をウルトラマンがサポートしていることになってしまうんですね。それで、ウルトラマンがそういう地球人のとんでもない振る舞いを、どうしてサポートするかということを遂に弁証することができなくなる。ウルトラマンシリーズが、少なくとも金城さんの手によっては、ある時期からは書けなくなってしまうことの根源には、こういう問題があるんだと思います。  佐藤によれば、もともと、ウルトラマンへの信頼は、日本人のアメリカの善意への、あるいは琉球人の日本の善意への、無条件で無根拠な信頼の映しだった。そうだとすれば、ウルトラマンの挫折は、アメリカの善意を自明に前提できた段階が終わりつつあるということを、そうした前提を支えていた、国際関係を含む社会構造が失われたということを、暗示していると思うんです。 †「彼に捨てられるかもしれない」[#「「彼に捨てられるかもしれない」」はゴシック体]  江藤も丸山も一九七〇年前後のところで、大きな思想的転換を遂げる。しかし、その転換の方向は、まったく逆に見える、こう言いました。しかし、二人の一見反対方向を向いた転換は、相補的な関係にある、ということをこれから論じたいと思います。  まず丸山の執拗低音論が示していることは、作為の論理に説得力を与えていた、超越的な他者の視点が、社会的に還元されてしまっている、ということです。その超越的な他者に社会的な実効性を与えていたのが、日本にとってのアメリカだった。丸山の論の変化は、アメリカの実在感が日本人にとって希薄なものになってきた、ということに無意識に規定されているかもしれない。  それでは江藤の場合はどうなのか。江藤は、むしろ七〇年代を境にアメリカが日本にとってはるかに重要だということをより一層強く自覚したんじゃないか。僕はこういうふうに思うんです。江藤は、さっき言ったように、自然の喪失という認識から、出発しています。ここで喪われたとされている自然とは何か。自然というのは、ローカルで特殊的な共同性なんです。その内部で多くの規範や期待を自明なものとして安心して前提にできるような共同性、しかしその代わり、どうしてもローカルであるほかなく、多くの負荷が加えられた自明な前提のゆえに特殊であるほかない共同性、こうした共同性が自然として体験されるわけです。  先に、日本が、ナショナルな、つまり特殊な——したがってローカルな——共同体としてのアイデンティティを維持することができたのは、そのアイデンティティを肯定的なものとして承認する、アメリカの普遍的な視線があったからだ、ということを論じました。「自然」が喪失したように感覚されるということは、まさにその自然な共同性を承認する普遍的な視線が、その効力を喪いつつあるからではないか。だからこそ、喪われつつある普遍的な視線を担う超越的他者を、要するに日本を肯定する他者としてのアメリカを、あらためて必要とする、ということになるわけです。このように考えると、江藤の言説もまた、丸山と同じ社会的現実に対応していたことになります。  簡単に言えば、江藤がアメリカが重要だということを発見したというのは、アメリカヘの信頼が危うくなっているからなんですね。先ほど言及した、田中康夫の『なんとなくクリスタル』という作品が秀抜なのはその部分なんです。『なんとなくクリスタル』というのは、簡単に言えば、次のような話です。主人公のモデルをやっているきれいな女の子で、恋人の男の子がいて、その二人が同棲ならぬ共棲関係にある。主人公である女の子はちょっと浮気をしたりするけれども、やっぱり恋人の男の子がいいわ、みたいな話なんですけれども、その間にそれこそアメリカ的というか、西欧的なブランドの話題がどんどん書かれていく。ブランドの話も重要なんだけど、ちょっとおくとして。そのときに、簡単に言えば、この構造は、その主人公の女の子が日本ですね。それに対して、恋人の男の子がアメリカです。その二人の関係というのが、主人公にとってはどうしても必要な関係なんですね。いろいろ浮気をしたけど、やっぱり彼との関係にかわるものはないわ、彼とのセックス以上にいいものはないわ、そういうふうに思うんです。しかし、ここで微妙なことがある。どうも彼は新しい彼女をつくったみたいな感じがする。もしかすると、自分は捨てられるかもしれない。そういうような危機感を持っている。つまり、アメリカと自分との関係は宿命的に結びついているわけではなくて、アメリカの偶有的な——変わりうる——善意によってかろうじて結びついているだけでいつ壊れるかもしれない、両者の関係は非常に不安定な関係だということの自覚が、この『なんとなくクリスタル』という作品の中にはある。この作品はもう八〇年代に入っているのですが。とにかく江藤にとってアメリカが重要だというのは、アメリカとの関係が自明性を失っていることの反作用として出ているんだということですね。  では、アメリカとの関係が変質したとは、日本人の精神にどのような現象的な帰結をもたらすのか。アメリカが超越的他者で、それに対して日本が従属している構図が消えてしまう。そういうことですね。言いかえれば、ある意味では、日本という国が高度成長を経て、アメリカという超越的な審級、超越的な他者の場所へ近接していくという構図になるのです。それが七〇年代初頭に起こりかけている現象だと思うんです。すると、日本自身がすでにアメリカのごとき超越的な他者であるという幻想が生まれるわけです。アメリカというのは、要するに世界のこと、あるいは普遍的な世界そのものです。アメリカの超越性が還元されるということは、日本を、アメリカが占めていた場所に重ね合わせることができる、という感覚をうむということです。日本は客観的に見るとローカルな共同体であるにもかかわらず、それ自体で世界である、普遍的であるという思い込みがここに生まれるわけです。  ここで僕らは最初のほうの話題に戻るわけです。七〇年代以降日本人にとって、自身が日本人であることの意識が後景に退いてしまう——だからたとえば「昭和何々代」という時代区分が説得力を喪ってしまう——こういうことを、述べました。日本人であるという属性が、七〇年代を境に、多くの日本人にとってどうでもいい、相対的に重要度の低い性質として感覚されるようになっている。それはなぜかというと、日本人であることがそのまま世界市民であることにつながっていくからなんです。かつて、つまり「昭和三十年代」といわれるような段階においては、アメリカという普遍的な視点の中にあって、日本はローカルな一分子であるという構造の中で生きる。それに対して、日本はアメリカのポジションに重ねることができるような幻想が支配しはじめたときには、日本人であるということがそのまま世界性へと短絡されてしまうので、日本人であるという限定が意味を喪ってしまうわけです。しかし、客観的にはまったくローカルで特殊な共同体の慣行に従っているだけなのに、自分を世界的であると思いこむことほど、実際には、世界性を欠いたローカルな仕草はないわけです。 †欠如の欠如[#「欠如の欠如」はゴシック体]  さて、こうやって僕らはやっと戦後の前半部分にまで到達しただけなんですね。後半の部分の展開については、もうていねいに論ずる余裕がないので、簡単に補助線だけ引いておきます。ウルトラマンの話を何度かしました。六〇年代の末期のウルトラマンにかわって、いったい七〇年代以降何が出てきたのか。同じようなある種のインターナショナルな関係を宇宙に投影したようなものとして注目しうるのは、たとえば八〇年代の初頭だったら、『機動戦士ガンダム』のシリーズです。今日まで続いているわけですね。その中に、ウルトラマンのかわりに何が出てくるかというと、モビルスーツですね。「モビルスーツ」を核においた作品の系列にあって、その系列の中で今日(一九九七年に)最も流行しているのは、『新世紀エヴァンゲリオン』です。  モビルスーツというのは、若い人たちはよくご存じのように、パイロットがその内部に搭乗し、操縦するロボットのようなものですね。おもしろいのは、しばしば、モビルスーツとその搭乗者との間に、独特なコミュニカティヴな関係が想定されていることです。  『新世紀エヴァンゲリオン』においては、「エヴァンゲリオン」と呼ばれる人造人間が、モビルスーツに対応します。『エヴァ』においては、そのコミュニカティヴな関係は、「共鳴《シンクロ》」という語で表現されています。つまり、エヴァは、搭乗者の神経系とエヴァの神経系の間の直接の共鳴・共振によって動くわけです。  このモビルスーツは、あるいはその最新版としてのエヴァンゲリオンという人造人間は、何を象徴しているのか。誰が見てもはっきりしているように、それは、女性の子宮なのですね。そうだとすると、江藤は六〇年代末期ぐらいに母の喪失ということを発見し、母が喪失された以上は父の確立へとつながると考えたわけですが、実際には、まったく反対に、一巡して再び母が再来したというか、母が再措定された、という転回が生じたことになるのではないか。こういう展開を思い浮かべることができるのではないか。「エヴァ」という名前——アダムとエヴァのエヴァ——も、明らかに母や母性の象徴であることを示しています。  しかし、『エヴァ』テレビ版(一九九五年〜九六年)の最後は、たいへん意外な結末になっているんですね。テレビ版の終結部の是非をめぐって、オタッキーな人たちの間の議論が沸騰している。このことはおくとして、すべての終わりに、唐突に、「父にありがとう、母にさようなら」という結論のメッセージが出てくるんですね。これは、本当に唐突です。というのも、これまでのストーリーで予想されていることとはまったく逆に、父が肯定され、母が否定されているからです。なぜ、こういう逆転が生ずるのか。これを問いとして提起しておきます。  もう一つ、『エヴァ』については、こういうことを言っておきたい。今日話した七〇年代初頭の時代を、僕は「理想の時代」と見なしています。理想の時代というのは、人々が、自らに「欠如」を覚える時代なんですね。つまり、理想と欠如は対になっている。欠如がなければ理想はありません。つまり、理想をもつということは、理想の欠如として現状を生きるということになるんですね。だから、ある欠如を埋めるということが、たとえば文学であり思想であり表現活動であり、さらに日々の活動になる。そういう時代が理想の時代だと思います。  それに対して、七〇年代以降は、いわば欠如がない時代だと思うんです。このこともやはり加藤さんがある講演の中で言っているんですね。そこで、加藤さんは、村上龍の『トパーズ』という短編集が大好きだというところから始めます。この短編集は、ブスな女の子のことについて書いてある。ブスな売春婦のことがいっぱい書いてあるんですね。村上龍は「自分はブスは大嫌い」と書いているのに、『トパーズ』の主人公たちがとても生き生きしている、これがとても素敵だと。なぜ素敵なんだろうかということを言っているんです。  村上龍は、サザンオールスターズをすごく評価していて、サザンオールスターズ以降初めて日本にほんとうのポップスというものが生まれたと、別のところで書いている。なぜそうなったのか、サザン以前になぜポップスが日本になかったのか。結論としては、村上は、日本人が貧乏だったからだと言うんですね。つまり、欠如というものをエネルギー源にして生きている間はポップスは生まれない。それに対して欠如というものをエネルギー源にしない生き方というのが七〇年代後半には、少なくとも出てくる。それが八〇年代に開花する。つまり、欠如を自覚するということは、苦しいことです。物質的な意味にせよ、精神的な意味にせよ、何かが自分に欠けている。だから苦しい。この「ああ、苦しい」という感覚は、ルサンチマンになる。文学も思想も、そして音楽も、このルサンチマンの表現に、あるいはルサンチマンとの葛藤の表現になってしまう。  それに対して貧乏じゃないということは、単にお金があるということではなく、欠如が一般にないということです。自分には、全然どこも欠けたところはない。だから、ルサンチマンはない。しかし、自分には何も欠けていないけれども、素敵なことは素敵だと感ずる。きれいな女の子はきれいだと思うし、寝たいとも思う。要するに、欠如なしに自然に生じてくる過剰な欲望や快楽がある。こうした、欠如とは無縁な過剰な快楽を肯定している。それが七〇年代以降のスタイルで、こうした土壌で、溌剌としたポップスも生まれうる。七〇年代の前半あたりを境にして、欠如に由来するルサンチマンの時代から、欠如のない時代へという移行が起きるんですね。ポップスの登場は、理想の時代の終結を象徴的に示している。  このことを前提にして、『トパーズ』という作品がなぜ素敵かが説明できる。こうなるんです。その小説の主人公は、ブスです。これは七〇年代以前の文脈では、ブスということは欠如です。美という価値の欠如なんです。ブスな女の子は皆ルサンチマンを抱いていなければいけないんです。ところが『トパーズ』の女の子は、不美人なのに、ルサンチマンを抱いていない。そこが良い。欠如ではなくて過剰な快楽に準ずるスタイルがいったんできれば、客観的には欠如に見える場合でも、もはや欠如に対してルサンチマンを覚えるのではなく、過剰な快楽に対する態度と同じ関係を生きることができるようになる。それが『トパーズ』という作品なんです。  ここまでは加藤の論です。僕は、これを踏まえて、その先のことを、『エヴァ』と関係づけて論じたい。たとえば『エヴァ』の中に人類補完委員会、人類補完計画というのが出てきます。人類補完計画という謎の計画が『エヴァ』の中で進行している。僕は初め、人類補完計画というのは、人類の数が極端に減ってしまったので、何とか人口を増やす計画かと思ったんです。現にセカンドインパクトによって地球の人口は何分の一かになってしまったという話になっていますから。そういう委員会かと思ったんですが、そうじゃない。人類補完計画は、人口が欠けているということではなく、もっと別の意味で、つまり精神的に欠けているということを前提にした計画なんです。その欠けているものを補完してやらなくてはいけない。欠如を補完した完全な人類に進化させる計画、これが人類補完計画です。この補完のことを、アニメは、疑似生物学的に、群体としての人類を、完全な単体へと進化させること、つまり個々人がバラバラに生きている人類を、全体として単一の個体にしてしまうことだと、説明しています。  僕は加藤さんの論をもとに七〇年代以降には、欠如を前提にした生き方が終わっている、と論じた。ところが、「人類補完計画」といった発想は、まさに補完されるべき精神的な欠如を、前提にしていることになる。やはり、ある始発的な欠如を前提にした発想です。この矛盾をどう考えるか。  整理するとこうなる。まず、理想の時代は、欠如を前提にしたスタイルの時代です。ついで、欠如の不在の段階がくる。そして九〇年代の、つまり『エヴァ』の時代には、再び若者は、欠如を覚えていることになる。しかし、この三番目の段階では、何が欠如しているのか。思うに、具体的に特定しうる何か——たとえばお金だとか、社会主義のような来るべき理想の社会とか——は、何も欠如していないんです。欠如しているとすれば、それは、欠如そのものです。何も欠如していないことに、欠如感を覚えているんです。これは自己矛盾的な欠如ですね。欠如が克服されたとき、今度は、欠如がまさに不在であるということに欠如を覚える段階がやってくるんです。それが現在です。  だから、今日話したことのあとに、二つの段階が待っているわけです。僕が今日話したのは、欠如の時代が終わりかけているというところまでです。その後に、欠如の不在の空間があり、さらに欠如の不在が欠如へと転ずる空間がある。この転換をどう考えるか。これはさらなる課題となります。  そして、そのことでもとの話に戻りたいんですね。今が戦前であるということの意味を考えてみたい。そして、さらに、戦争において思想の表現が不可能であったということの意味をもう一度考えてみたい。そういうのが今考えていることです。 [#第2章 「近代の超克」とポストモダン(page2.jpg)] [#小見出し]1 脆弱な天皇 †近代の超克[#「近代の超克」はゴシック体]  今日は、多くの方もご存じの「近代の超克」論ということについて話をしたいと思います。ちょっとだけ前回とのつながりを申し上げておきますと、前回は「戦後思想の現在性」という題で、日本の戦後思想を一九四五年から七〇年前後ぐらいのあたりまで眺めて、そこら辺で一つの転換の兆しがあることを読み取るという作業をしたわけです。そのときに、アメリカの話をしたんです。アメリカというのは、もちろん思想そのものというより、アメリカに対して日本社会が持っている社会的な関係ですね。もちろん日本だけではないですけれども、日本にとって特にアメリカという社会が非常に重要な意味を持つわけですけれども、社会的なレベルでアメリカに対応するものを思想的なレベルで読み取るとどうなるのだろうか、こんなことを考えながら、議論したわけです。  そこで、私は、アメリカがその社会的で現実的な基盤であるような、超越的な他者の立場に立つことが、戦後知識人の批判的な言説を可能にした、このように論じました。しかし、ちょうど一九七〇年ぐらいにある転換の兆しがあるというようなことを話したんです。この時期を、境にして、この超越的な他者の超越的な効力のようなものが、還元されつつあるように見える、ということです。普通、素直にいけば、ここで戦後の七〇年ぐらいまで、四五年から数えると、ちょうど二十五年かかっていますから、今、僕らの時代は九七年ですから、そこから後の四半世紀といいますか、約二十五年の思想について議論するという段取りになるのですが、今日はあえて迂回路をとりたいと思うんです。  どうして迂回路をとるか。それは、前回(前章)の最初の議論が、解答になっています。前回、「戦後」を、一つのまとまった期間として論ずることの根拠はどこにあるのか、という問いを出し、それは、まさに現在が戦前だからだ、と述べました。日本の戦後五十年に関して、その約六十年前と、ほぼ類比的な対応関係を見出すことができるんです。すると、現在は、まさに戦前に対応するわけです。  そうすると、現代について考えるときに、現代について直接考えるのではなくて、戦前の思想という迂回路を通ることによって現在について考えてみようということができるわけです。そして、戦前と戦後の対応関係を思想の水準で見たとき、非常にあからさまな対応関係があることがわかります。皆さんもよく知っている一九七〇年代の終わりから主として八〇年代の終わりにかけて、いわゆる現代思想のいくつかのグループ——たとえば構造主義やポスト構造主義——の流行に連動するような形で、ポストモダンということが、思想の根幹をなすような標語《スローガン》として一世を風靡したわけです。ところで、この時期に対応する「戦前」の思想にも、ポストモダンがある。それが、「近代の超克」論ですね。ここでは、戦前に、「近代の超克」が、どのような必然性に導かれて主張されていたのか、を考えてみようと思うんです。  今日は、「近代の超克」という思想がどういう社会的な必然性があって唱えられていったのか、そういうことについて考えてみたいわけです。そのことによって、戦後のポストモダンを鏡にしてみよう、ということなんです。戦後のポストモダンを考えるのに、一つの伏線として、あえて「近代の超克」論というところを経由させてみたらどうだろうか。そのほうが深い思考ができるんじゃないかと思うんです。それが今日話したいことのねらいなんです。  ですから、今日は特に「近代の超克」で、いろいろな人がそういう言葉を使っていますけれど、具体的な話として、思想家としては、いわゆる京都学派と言われている哲学者たちをメインに考えたいんですね。つまり、戦前の思想の中で哲学をリードした人たちです。彼らは、アカデミックな哲学というよりもかなりジャーナリスティックでした。これは悪い意味で言っているのではありません。彼らの著作は、専門学会の人たちだけが読んでいたわけではなく、一般の公衆に強くアピールした。その主要な哲学者が京都大学近辺を中心に活躍したわけです。  京都学派に一応絞るというのは理由があります。「近代の超克」というのは一番狭い意味でとればこういうことです。これは非常に有名なので皆さんも知っていると思いますけれども、一九四二年(昭和十七年)に、もうアメリカとの戦争が始まっているわけですけれども、『文學界』という雑誌で「近代の超克」という名前の一大座談会が行われたんです。これが「近代の超克」という言葉を直接、最も狭い意味で捉えた場合に、指している現象なんです。今でもその座談会の記録は容易に読むことができます。この座談会に十三人の論客が顔をならべていますが、彼らは、主に三つのグループに分けられると思います。つまり、『文學界』に書いている常連執筆陣と、いわゆる日本浪漫派《にほんろうまんは》と言われている人たち、それから、先ほど言った哲学者では京都学派と言われている人たち。それにどれにも入らないような数学者みたいな人たちもちょっといるんですが、そういう人たちは一応おくとして、とにかく大体そのグループに分かれた、全員で十三人の出席者がいる座談会なんです。この中で、いい悪いは別として、一応システマティックな思想を展開しているのはやはり京都学派なんですね。  この座談会自身はすごく有名なんですけれども、ほんとうのことを言うと、読んでもそれほどおもしろいというほどでもありません。放談のような印象で、それほどレベルの高い話ではないんです。人によってはこのレベルの低さにこそ意味があり、あえてポジティヴというかシステマティックなことを避けているというところに何か重大な意味があるんじゃないかというようなうがった見方もあるんですけれども、それはちょっとどうでしょうか。少しそうかなと思う部分もありますけれども、とにかく普通の意味で言えば、それほど理論的な水準の高くない座談会だと言わざるをえないんです。率直に言えば、この座談会自身は、かなり散漫なものですね。  しかし、「近代の超克」ということで僕がここで問題にしたいことは、別にこの座談会のことだけではないんです。一般に「近代の超克」について書かれたものはいっぱいあります。その中でも有名なのは、竹内好、廣松渉、それから最近では柄谷行人とか、そういう人たちが書いたものですけれども、皆別にこの座談会のことだけを書いているわけではないんです。あるいはこの座談会に出ていない決定的な者とか、三派の中にもそういうのがいるんですね。ですから、この座談会だけを問題にするのではなくて、この座談会のタイトルにおいて象徴されている当時の思潮全体を問題にして、「近代の超克」という論調だったんだと、そういうふうに考えていったほうがいいと思われます。  この座談会は今言った一九四〇年代の初頭に行われるのですけれども、実際には要するに一九三〇年代の間に準備されてきた日本の思想の総括としてこの名前が与えられていると、考えるべきです。これも一応常識的なことなんですが、確認しておけば、「近代の超克」に、今日でも多くの人がなぜ強い関心を寄せるかというと、この言説が、一般に当時ファシズム化していた、あるいは超国家主義の段階に入っていた日本のイデオロギーのエッセンスを表現しており、さらには日本のアジアへの対外侵略の正当化にも寄与したと考えられているからです。ですから、日本のファシズムというものの、インテリレベルでの表現が、ここら辺に集中しているのではないか。そういうことでよく話題になるわけです。 †「都市」の時代[#「「都市」の時代」はゴシック体]  今ちょっと言いましたように、「近代の超克」論が特に問題になるのは、昭和になってからです。けれども、一応昭和の直前からちょっと話をしてみたいと思うんです。つまり、これはうんと大ざっぱにしか話しませんが、昭和というのは、一九二六年から始まるわけですけれども、だから、「近代の超克」というのは一九三〇年代の思想だとすれば、ほぼ昭和の転換とともに、「近代の超克」によって代表されるような思想的な流れは出てくる。ちょうど大正と昭和の境ぐらいのところに、日本の思想、思想だけでなくてもうちょっと広い意味での精神的なものにある断絶があった可能性があるんです。  大正時代というのはデモクラシーの時代ということになっていますね。つまり、大正デモクラシーなんていう言葉があるわけです。大正デモクラシーというのは、一般に民本主義ということですね。前回も話を若干したと思うんですけれども、民本主義と民主主義はどう違うのか。民本主義というもののメインの論客というのは吉野作造という人ですけれども、民本主義というのは、こういうことです。形式的には天皇に主権があるわけだけれども、天皇という主権者と共存しうる民主主義。天皇という主権者を持つ民主主義という意味なんですね。僕らが今日よく知っているように、みんなが平等に主権を持つということが民主主義の意味ですね。だから、だれか単一の主権者がいるというのはおかしいんです。民主主義と共存する天皇が究極的には単一の主権を持っている民主主義というのは、ほとんど形容矛盾に近いんですね。こういう言い方がどうして成り立つのか。  つまり、逆にいうと、これはほとんど実質的に言えば普通の民主主義と同じなんです。 ということは、天皇はいないに等しいということですね。天皇がいるけれど、人々は彼がほとんどいないかのように振る舞うことができる。そういうのが民本主義ということなんですね。前回話しましたけれども、明治・大正・昭和への転換というのを、天皇と国民との関係で見た場合、明治が「天皇の国民」であるとすれば、昭和のウルトラナショナリズムは、「国民の天皇」という言い方で特徴づけられます。その中間に、天皇がいないかのような国民、つまり「天皇なしの国民」という段階があるんですね。それが大正時代にあたります。  「天皇なしの国民」だと、どういうことになるか。天皇がいるということが、日本の——当時の言葉で言えば——「国体」(ナショナリティ)の根拠になっていますから、天皇がいないのに国民であるということは、もはや、国民という言い方が実質を失ってしまうということですね。さらに(天皇の)臣民という言葉も空虚なものになってしまう。国民とか臣民とは言わず、単に人民だと考えればよい、あるいは市民と見なせばよい。  そうすると、こういうことを思い起こしてよい。明治の思想家たちがよく使い、明治の思想をリードしたキータームは、「国家」ですね。明治は国家の時代だと言っていいと思うんです。それに対して、大正時代は、国家という言葉は明治のようには流行《はや》りません。大正時代に、国家にかわって流行する言葉は、「都市」ですね。「都市」が、時代を象徴する言葉になる。今言ったように、天皇の国民から天皇がいないかのような国民へとシフトしていった、そのときに、自分たちの社会がどのようにイメージされるか。「天皇の国民」の社会にイメージを与えるのが「国家」、つまり臣民の集合であり、「天皇なしの国民」にイメージを与えるのが「都市」、つまり市民の集合だったわけです。  ついでにちょっと言っておけば、前回述べた六十年周期説を考えると、大正時代に対応するのは、一九七〇年代から八〇年代ぐらいになりますね。考えてみると、その時期というのは、都市論がたいへんブームになった時代です。つまり、このときも、都市というもので時代の社会がイメージされた。僕なんかはちょうどその時期ぐらいに研究者としての第一歩を踏み出した世代にあたる。僕の友人なんかで、結構優秀な人は都市社会学というのをやっていますね。つまり、それはその当時都市というもので考えていくということで、社会に全部切り込むことができるという感覚が広く共有されていたからですね。 †東京大正博覧会[#「東京大正博覧会」はゴシック体]  大正三年、つまり一九一四年ですが、このときに、東京府主催で東京大正博覧会という博覧会が行われているんです。もともと、最初は政府が主催する予定だったんだけれども、資金的に苦しくなって、東京府が肩代わりしたんですね。これが未曾有の大成功を収めた。日本近代文学の研究家の武田信明さんが大正時代について書いた本(『〈個室〉と〈まなざし〉』)の中で、この東京大正博覧会を、都市の時代としての大正への移行を象徴するようなイベントだったと位置づけています。大正のほぼ最初のころに、まさに都市をテーマとした博覧会が、国家ではなく東京府によって主催され、そして、それが大変な成功を収めた。これはたいへん「都市」の時代にふさわしいものだと言えます。  この博覧会の中で、実は二つの将軍石膏像が大変な人気を博したんです。二つの将軍石膏像というのは、一つは作者がはっきりしている。もう一つは作者はよく知らないんですが、つまり作者が問題にならないようなほどのものなのです。作者がはっきりしている石膏像については、皆さんもよく知っているんです。それは、渡辺長男作の、乃木将軍の石膏像ですね。乃木将軍が当時人気があるのはすぐわかりますね。彼は日露戦争の英雄ですが、一九一四年に明治天皇に殉じて死んだ。  もう一つの石膏像の将軍を知っている人は、今では少ないかもしれません。それはどういう将軍かというと、これは蘆原将軍という石膏像なんです。この人のことは、もちろん、乃木将軍と違って教科書にも書かれていないし、今では忘れられていますが、当時非常に有名な人なんです。だからこそ、もちろん人気があったわけですが、蘆原将軍とは誰か。陸軍か何かの将軍かと思うかもしれませんが、そうではない。当時、巣鴨に精神病院があったんですが、その精神病院に長期入院していた精神病患者なんです。この人が、当時、有名だった証拠に、武田さんによれば、当時の百科事典に蘆原将軍という項目があるんです。また、新聞はときどき蘆原将軍のところに行って、いろんなことへのコメントを取ってきているほどです。つまり、蘆原将軍の談話というのがときどき新聞に載るんです。そのくらい有名な人気者だったんです。当時テレビもないから、ワイドショーがわりみたいなものでしょう。  この人の一番有名なエピソードは、こういうエピソードです。これはこの後の話にちょっと関係がある。明治十四年(一八八一)に、天皇が東北に巡幸したときに、天皇に「あにき、ちょっと待ってくれ」と声をかけたという有名な逸話があるんです。つまり、ちょっと妄想を持っていらっしゃるんですね。実は、今の妄想、つまり天皇に「おい、あにき」と言ったその妄想からも直ちにわかるように、蘆原将軍というのは、ほんとうは将軍じゃないんです。つまりどういうことかというと、実は、これは蘆原帝というべきなんですね。つまり、自分を天皇とか皇族だと思っているんです。だけれども、そういうふうに言うと不敬だということになるので、マスコミによって将軍というふうに呼ばれていたのであって、ほんとうは自分のことを皇帝とか天皇とかというふうに思っていたと思われるんですね。ついでに言っておけば、先ほど言った乃木将軍も、一度蘆原将軍(蘆原帝)に会っていて、「よく旅順では頑張ってくれた」というような「おことば」を頂戴しているということになっています。この蘆原将軍というのは、つまり蘆原天皇と名乗った精神病患者なんですが、乃木将軍とともに、東京大正博覧会の人気を二分したわけです。 †蘆原帝[#「蘆原帝」はゴシック体]  このエピソードをなぜ言ったかというと、これは直ちに皆さんもお気づきのように、この蘆原将軍というのは、同じように病に冒されていたと思われる、当時の大正天皇の象徴的等価物なんですね。率直に言えば「ボケた天皇」ということになるわけです。もうちょっと学問的というか、きっちりした言葉で言えば次のようになります。天皇というのは超越性や崇高性を帯びた人物であり、そのことによって、強力な実在感を人々に与えている。しかし、大正天皇は、超越性や崇高性を還元されてしまった、あるいはむしろ負の超越性や負の崇高性を有する天皇です。超越性や崇高性からくる実在感を還元されてしまった天皇です。  三人の近代の天皇の中で、明治天皇、大正天皇、昭和天皇という三人の中で、大正天皇に対して、僕らは圧倒的に貧困なイメージしかもっていない。このことの理由を、僕らは、普通、大正天皇の在位期間が他の二人よりずっと短いこと、そして大正天皇が重い病であって表に出ることがあまりなかったこと、そうしたことの結果だと考えてしまう。それももちろんそうなんだけれども、しかし、この蘆原帝への人気を補助線として考えてみると、こういうことが言えると思うんです。言ってみれば、極論すれば、当時、「ボケた天皇」が求められていたんです。つまり、実在感の乏しい天皇というのは、別に大正天皇が病気だったことの結果ではない。大正時代は、実在感が乏しい天皇の時代であるわけです。天皇のほうの事情ではなくて、国民の側の事情によって、何か超越的な雰囲気の乏しい、超越的な存在としての実在感の乏しい、そういう天皇の時代になったのではないか。  だから、天皇でありながら天皇らしくない、天皇でありながら、天皇としての強力な神々しさを持たない。つまり、天皇がいながら存在しないような印象を与える。そういう時代としての大正時代というものを、この蘆原帝というのは、象徴しているんですね。こうしたことが、天皇の存在をノーカウントにすることができる民本主義といったイデオロギーを可能にしているのではないでしょうか。 †クラゲの研究家の赤子[#「クラゲの研究家の赤子」はゴシック体]  さて、その上で、冒頭にもう一つ言っておきたいことがあるんです。今日は、先ほど言ったように、「近代の超克」論、特に京都学派を中心に考えていくわけですが、「近代の超克」論をたどりながら、日本のファシズムとかファシストたちの思想というものにどのように連続的に移行していくかを考えます。軍人たちによって担われたような典型的なファシズムと、それから当時の一流の哲学者が担った思想は、もちろんストレートに同じものではない。しかし、その間に連続的な線を引くことができるんですね。  ところで、日本のファシズムの根本思想とは何か。それは天皇の赤子《せきし》という考え方ですね。  先ほども言ったように、右翼の青年将校と「近代の超克」論者というのは直接同じものではないけれども、ある種のシンクロというか、同調しているんですね、時代の精神として。だから、先ほど言ったように、連続的に移行していくことができる。  僕らは普通こんなふうに思っています。昭和維新といいますが、昭和の初期のファシズムのころというのは、天皇制ファシズムの時期だから、天皇というのは猛烈なカリスマであって、いわば神様のような存在であり、天上にいる人のように崇め奉られていた、そういう天皇の強力な実在性というのがあるんだと。そういうふうに考えますね。大正天皇の希薄な実在性に対して、昭和の初期の天皇の強力な実在性ということはあるんです。このことは、うそではないと思うんですけれども、だから、僕らとしては、大正天皇が非常に希薄な存在感しかなかった大正の時代から、天皇というものがものすごく実在感があった昭和という時代への転換というのがどうして起こったのかということを考えなければいけないんだけれども、ここで、しかし、僕らは、もうちょっとだけ立ち止まって考えなければいけないことがあります。  つまり、こういうことです。先ほどの蘆原帝に代表されるように、大正の天皇というのは何か神様的な神々しさみたいなものをまったく奪われた、神々しさを持たないボケたような雰囲気の、そういう天皇であったと、言いました。それに対して昭和の天皇というのは、ものすごく神々しいものとして見られていたに違いない。そういうふうに考えるわけですが、これも一面の真理ではあるけれども、こういうふうに言ったのでは、やっぱりある種重要なところを見落としてしまうんです。たとえば、僕は何度も言ったことがあるんですけれども、ファシズムの思想家の中で最も重要な思想家というのは、北一輝ですが、彼は天皇のことを「クラゲの研究者」と言っているんですね。つまり、ちょっとこばかにしたような呼び方をしているんですね。つまり天皇の赤子観の核には北一輝の思想があるのですが、その北一輝は天皇をちょっとばかにしたような、あるいは親しみをこめて呼んでいる。そういう天皇は、蘆原帝と同じタイプの天皇じゃないか。ある意味でボケた、少なくとも弱々しい天皇ではないか。  つまり、ここで僕らは常識をちょっと判断停止しておかなければいけないんです。つまり、ファシストたちが天皇をある意味では崇拝していたに違いありません。天皇赤子観というのがあったんだから。しかし、その天皇というのは、もしかすると、大正天皇のような、あるいは蘆原帝のような、言ってみればある普通の意味での神々しさを失った天皇であったかもしれない。ファシズムは不思議なんです。つまり、天皇は神々しいから、立派だから、天皇に従うというだけではなくて、天皇はクラゲの研究者にすぎないけれども、天皇に従うんです。これはちょっと強調し過ぎると行き過ぎになりますけれども、そういうふうに言ってもいいような側面がある。つまり、何か非常に親しみのある、その辺のおじさんと同じような人なのに、あえてそれに従属するという構造があるんです。実際、加納実紀代さんの研究によると、十五年戦争期の天皇のイメージは、力強く、攻撃的な父性よりも、むしろ母性としての面を主に帯びている。つまり、天皇は隔絶した場所に神々しく君臨しているというよりも、母のような親密さにおいて人々を捉えていたわけです。加納さんのこうした議論は、ここで僕が話してきたことを支持するものです。 [#小見出し]2 資本主義とその挫折 †「ウルトラ」[#「「ウルトラ」」はゴシック体]  「近代の超克」論に入る前に、その社会的な背景について少し述べておきたいと思います。日本のファシズムというのは、よく超国家主義と言われます。「超」がつくんですね。英語で言うとウルトラナショナリズムです。「超」や「ウルトラ」という接頭辞は、過剰さや過激さを表現していますね。そのナショナリズムは何に対して過剰なのか。これは、明治のナショナリズムですね。明治の後半のナショナリズムが普通のナショナリズムとされているわけです。それに対して、昭和初期のナショナリズムは、過剰性を帯びたものとして現れている。  こうした過剰性は、いつから現れるのか。日本のファシズムの研究に関しては、僕は橋川文三という人が非常に優れていると思うんですが、その橋川文三は、昭和維新期へと向かう大きな変容の最初の兆候はいつかを問うています。彼によれば、それは米騒動のときです。米騒動は大正七年、一九一八年ですね。この米騒動のときに、日本の社会はちょっと、それ以前と断絶があるんだと。米騒動の頃に兆し始めた変化というのが、最終的に昭和になって決定的に現れてくるんだと、そんなふうなことになるんですね。橋川文三は、当時の『大阪朝日新聞』を引用しています。それは、当時の文章ですからちょいとばかり硬めの文章ですが、当時の感覚からしても、何かただならぬことが起き始めているということを書いていますね。ちょっと読みます。  「……金鴎無欠の誇りを持った大日本帝国はおそろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。〈白虹日を貫けり〉と昔の人が呟いた不吉な兆しが、点々として肉又を動かしている人々の頭に雷のようにきらめく……。」 何か最後の審判が近づいているんじゃないかという、そういう終末観漂う、ただならぬことを感じる、という文章ですね。  今のは、社会的コンテキストの変化ですが、ナショナリストの系譜という点では、転換点は、どこで生じているのか。橋川文三も、それから『現代日本の思想』(岩波新書)の中で超国家主義について書いている久野収さんも、同じ人物を画期においている。  皆さん、ウルトラナショナリストというと、テロリストのイメージがするのではないでしょうか。テロリズムの頂点にあったのが、前回にも論じた、二・二六事件ですね。しかし、日本の近代史の上で、テロリズムがウルトラナショナリストの専売特許かといえば、そんなことはない。明治にだって、テロリストはいっぱいいるわけです。しかし、「ウルトラ」という接頭辞にふさわしいような異様性を帯びたテロリストは、どの時点で始まるのか。  橋川と久野が共通にあげている、その転換点を象徴している人物は、一九二一年、つまり大正十年に、安田財閥の安田善次郎を刺殺した朝日平吾です。この朝日平吾という人物こそ、昭和のナショナリストあるいは昭和のテロリストへと連なる系譜の嚆矢《こうし》にあたる。『松翁安田善次郎伝』は、朝日平吾の、いささか常軌を逸しているかのような印象を与える異様性を、「大陸流浪さえしばしばしたロマンチックな」人物だった、という言い方で表現しています。安田善次郎刺殺事件への当時の読売新聞のコメントがおもしろい。  「大久保利通の死、森有礼の死、星亨の死、それぞれ時代の色を帯びた死であるが、安田翁の死のごとく、思想的な深みは無い。伊藤博文公のごときは、あまりに外面的に取り扱われて安価な浪花節的感激をまき散らしたにすぎなかった。」 そこまで言うかという感じですね。  「それから思えば安田翁の死は、明治大正にわたっての深刻な意義ある死である。」  安田は殺されてもこういうふうに言われている。つまり、ここに今までとは違ったテロリズムが始まったという直観を、読売新聞のこの記者は書いているわけです。 †明治は遠くなりにけり[#「明治は遠くなりにけり」はゴシック体]  それから、もう一つだけ例を挙げておけば、これはテロリズムとは全然関係ありませんが、時代の転換を示唆しているという点で興味深い例です。  今言ったように、米騒動というのは一九一八年なんです。今言った安田善次郎殺害事件は一九二一年なんです。そうすると、大体一九二〇年前後あたりで、社会の質的な転換の予兆が直観されている。社会というのは、当たり前ですけど、突然昨日から今日へと、全部変わるというわけではなくて、比喩的に言うと斜めに変わっていく。最初は、新しい原理が少しだけ入ってきて、社会構造を、いわば薄く変えていく。そして、やがて、ある時期までくると、構造の全体が、別の原理に覆われるようになる。すると、一九一八年頃に亀裂が入りはじめ、一九三〇年頃にはトータルに社会を変質させるような、こんな断層線を引くことができるかもしれない(図1)。 [#図1(fig1.jpg、横350×縦160)]  こうした断層線があることを傍証する例を、ひとつだけ指摘しておこうと思うんです。これは、社会科学的な厳密性をもった例ではありませんが、ある種の雰囲気を伝えるものではあります。皆さんもよく知っている中村草田男の歌に、「降る雪や明治は遠くなりにけり」というのがありますね。これはいつつくられた歌なんだろうか。明治は遠くなりにけりと言っているのは、いつのことなのか。いつから見たら明治が遠く見えたのか。これははっきりわかっているんです。この歌は、一九三一年、昭和六年に書かれた歌らしいんですね。二・二六事件の日に書いた歌だという説もありますが、これは間違いのようです。たとえば、中村隆英さんの『昭和史』には、これを二・二六事件の際の作としてありますが、そうではなく、一九三一年に書かれた歌というのが正しいようです。ともあれ、このとき、今から見ると明治は遠くなってしまったなというふうに言っているんですね。ではいつまで明治からつながっていたのか。図1の左側のほうが明治の領域ですね。いつまでが明治だったのか。  中村草田男は、一九〇一年(明治三十四年)の生まれです。この歌は、東京の青山付近で歌ったということがわかっている。その青山の近辺で、彼が小学校の四年生、五年生ぐらいのときを過ごした。つまり、十歳ぐらいのときに過ごした。そして一九一〇年代の初め頃を過ごした青山に一九三一年に再び来て、「ああ、明治は遠くなったな」と歌っている。そうすると、彼が十歳くらいの一九一〇年ぐらいのときにはまだ明治だなと思っているんですね。もちろん実際問題としても、明治の終わりぐらいの時期なんですけれども。しかし、気がついたら明治は遠くなったという感慨をもったのは、一九三一年なんですね、その同じ場所に来て。つまり、一九一〇年から三〇年のどこかで、明治から連続的に連なっていた線が断絶しているんですね。そのために実際以上に明治が遠い昔のことのように感じられる。そういうことを歌っているわけです。中村草田男のこの歌のこうした意味については、実は、加藤典洋さんが『日本という身体』という本で、解説しています。 †第一次世界大戦[#「第一次世界大戦」はゴシック体]  一九二〇年前後にある転換点があった。これは考えてみれば当然な——つまり歴史的・社会学的に見て非常にありそうな——話です。というのは、一九二〇年前後というのは、日本だけで見ているとそんなことはちょっとわかりにくいですが、世界史的に見れば大変動のあったときですね。言うまでもなく、これは第一次世界大戦の終わった時期に当たるわけです。つまり欧州大戦というのが終わった。実際問題としても、米騒動というのは、因果関係から言っても、第一次世界大戦と関係があるわけですけれども、直接そういうことだけではなくて、第一次世界大戦の終結とともに、日本だけではなくて、ある意味で地球的な規模で、何かカタストロフィックな変化が始まっているんですね。その変化の一局面として、米騒動があり、あるいはテロリストの変質があり、また中村草田男が感じた明治からの転換があったのではないか。  第一次世界大戦の終結にともなう転換は、社会科学的に大づかみに見たらどういう変化になるか。この変化は、資本主義的な世界システムのある変換として記述できる。世界システムは、基本的に、中心と周辺の二元的な構造をもっています。その中心というのが、西洋、あるいは欧米です。もう少し特定すれば、十九世紀の段階には、中心は、明らかにイギリスに、あるいは西ヨーロッパにあるわけです。第一次大戦は、この世界システムの中心が移動した画期を刻印しているんです。どう移動したかというと、西欧あるいはイギリスから、アメリカへと移動したんですね。世界システム内の覇権国が、アメリカへと移動した。  一九二〇年くらいを境にして、世界システムの中心は、完全にアメリカへと移動してしまう。前回、アメリカとの関係で、日本の戦後の特に前半の思想を概観したわけですが、アメリカの世界システムにおける中心性というのは、この時期に決定的なものになるわけです。が、ここで少しばかり注意しておかなくてはならないことは、アメリカ自身が、このことを、つまり自分がシステムの中心であるということを、あまり自覚していなかったということです。このことを象徴的に示しているのは、自らの国の大統領が提案した国際連盟に自分自身は参加しなかった、という事実ですね。そのために、このシステムの中心が、一時的に、事実上、空白状態になってしまったんですね。つまり、システムがその統一性の保証になるような中心を欠いている状態が出現したわけです。  世界システムの変動ということで、僕は、ここで市場の構造についてだけ言っているわけではありません。これは、精神的・文化的な意味ももっているわけです。西欧では、自分自身の上にあった中心が離れていってしまったこと、あるいはむしろそもそも中心そのものが空白化してしまったことが、一種の「終末」として自覚されたんだと思います。実際、端的に『西洋の没落』といった題の本が書かれ、広く読まれるなどという文脈は、こういうところにある。ところで、僕らは、先ほど『大阪朝日新聞』の記事を引用しながら、米騒動の頃の転換が、終末への予兆として、感覚されていたかもしれない、ということを見ておきました。端的に終末と言えるかどうかはともかくとして、似たような鬼気せまる感覚というのは、朝日平吾のテロにふれた『読売新聞』にも認められます。つまり、ヨーロッパを主たる戦場としていた大きな戦争の終結は、単にヨーロッパ自身にとって終末として感覚されただけではなく、世界システムの全体にとって——その被害を大きくはこうむらなかった領域も含む全体にとって——終末として感覚されていた可能性があるわけです。このことが、単にシステムの中心が移動しただけではなく、中心自身が一時的に機能しなかったという、ここで僕が指摘したような状況が出現していたかもしれない、ということの、一つの傍証になるかもしれません。 †金の退陣[#「金の退陣」はゴシック体]  世界システムの中心が、西欧からアメリカに移った。あるいは、移り先であるアメリカのほうでそれを受け取らなかったので、中心が機能しないような状態が出現した。このことの最終的で顕著な帰結が、資本主義的な世界システムを襲った、一九二九年に始まる大恐慌なんです。  一九三〇年代は、この大恐慌の時期に始まる。そして、これこそが、「近代の超克」という思想の揺籃期、そういう思想が作られていく時期にあたるわけです。そして、これは、日本の近代史の中で「昭和維新」と呼ばれている時期ですね。簡単に言えば、「近代の超克」論というのは、資本主義的なシステムが、大きな、今まで経験したことがないほど大きな挫折を経験していた、その時期に、発芽したわけです。資本主義システムの挫折というのは、具体的には、もちろん大不況なんですが、もうちょっと細かく言っておけば、次のようなことが大切です。  第一次世界大戦というのは、異常事態ですね。異常事態である大戦が終わって、どこの国も、経済の状態をいったん常態に戻しますね。戦時経済から普通の経済にいったん戻る。その戻るということの象徴は何かというと、金本位制なんです。つまり、大戦中は金本位制なんていうことを言っていられませんから、金と貨幣との交換というのは停止されているんですね。しかし、それでは貨幣の信用というものは成り立たないので、金本位制に、すべての国が復帰するのです。それが大戦後の経済の正常化なんです。  日本はどうなったかというと、日本はかなり遅れをとったんだけれども、一九三〇年になって金本位制に復帰するんですね。それが日本では「金解禁」というふうに言うんですけど、金の取り引きができるようになる。井上準之助という、自信過剰な当時の大蔵大臣によって、かなり強引に進められた政策として金解禁というのがあったんです。それは一九三〇年なんです。  だから、どこの国でもちょっと苦労しますが、とにかく何とか少しずつ金本位制へ復帰する。それが戦間期なんですね。しかし、大恐慌とともに金本位制をすべての国が放棄する。日本も、かなり遅れて放棄する。この金本位制の再放棄ということが、大恐慌による資本主義システムの転換を象徴しているんですね。  だから、こんなふうに言ってもいいと思うんです。金というのは貨幣の番人です。金を直接交換するわけじゃないけれど、紙幣というのは金と交換できると書いてある。皆さんが今持っている紙幣にはそんなことは書いてありませんよ。昔は兌換紙幣でしたから、その銀行券を持っていけば金と換えてくれたわけですね。つまり、金との引換券だから貨幣が通用していたわけですね。だから、金本位制というのは非常に重要だったわけです。マルクスも比喩的に言っていますが、権威ある金は、品々の王様なわけですね。しかし大恐慌を境に金の権威が完全に失墜する。つまり、金がもはや君臨できなくなる。そういう時期なんですね。だから、金本位制の挫折というのが、言ってみれば大恐慌がいかに大きな変化であったかということを象徴しているんだと言うことができるわけです。 †アメリカの撤退[#「アメリカの撤退」はゴシック体]  ちょっと思想から離れていますけれども、もうちょっとだけ言っておきますと、第一次世界大戦から大恐慌までの時期というのはわずか十年ぐらいの時期ですけれども、実はこういう時代なんですね。一九二〇年代というのは、資本主義の実は繁栄期なんです。大変に成功している。少なくともアメリカに関して言えばそうなんですね。アメリカは「繁栄の一九二〇年代」と言うぐらいで、大変に成功した時期なんです。たとえば、当時、アメリカは、自動車の保有台数はもう四、五人に一台あるんです。つまり、家族に一台ぐらいある時代になっているんですね。これは驚くべき量ですね、当時の感覚からすれば。ラジオの普及率も四〇パーセントになっている。そういう時期ですね。あるいは家電製品が急速に普及してくる。日本だったら高度成長期になって初めて多くの人々が使うような家電製品が、普通に使われるようになる。そういう時期が繁栄の一九二〇年代なんですね。  だから、アメリカはとにかくこの時期、絶好調。ではアメリカ以外の国はどうかというと、世界経済も何とかうまくいき始めた時期なんです。それはなぜかというと、アメリカの後ろ楯があったからなんですね。たとえば一番有名なのは、皆さんもよく知っていると思いますが、ドイツというのは第一次世界大戦で負けて、ものすごく高い賠償金を払わなくてはいけなくなったりして、一時まったく通貨というものの信用を失い、ものすごいインフレになるんです。パン一枚買うのに、トランク一杯ぐらいの紙幣が必要だとか、今朝見たものが夕方には十倍ぐらいの値段になっているみたいな、そういう狂ったようなインフレの時期ですね。そういう極端なインフレも、アメリカがお金を貸すことで抑止される。つまり、アメリカがドイツに、あるいはほかにもイギリスも含めて、疲弊しきったヨーロッパにかなりの資本を投じたんです。そのことによって、世界経済はまがりなりにも安定基調に入ったというのが一九二〇年代なんです。世界システムの経済的な構造の面で、客観的にはすでにアメリカが中心になっているという事実は、こうしたことの内に現れるんですね。  ところが、なぜそれが大不況になってしまったのか。もちろん、その因果関係を説明する説はいろいろあります。ここでは、ごく常識的な一般的な範囲内での説明だけしておきます。簡単に言えば、この点にこそ、アメリカが自分自身が中心であるということを自覚していなかったということ、このことがあらわれるんです。中心としての自覚の欠如からくるアメリカの政策、たとえばアメリカの金利低下策などがあり、簡単に言えば、アメリカが海外に投資した資本が全部アメリカに戻ってきちゃったんです。どうしてかというと、アメリカで株式ブームがあったんです。アメリカの金利政策がその一因になっている。この株式ブームは、要するにバブルです。一九二〇年代の後半ぐらいからバブル経済になるんです。それで投機でもうけるほうが得になってきて、アメリカで株を買ったほうがいい、金融証券を買ったほうがいいということになる。だから、海外投資したお金が全部国内に還流してきてしまったんです。つまり、ヨーロッパにあったアメリカの資本が還流してしまった。そのために、もともと第一次世界大戦で生きるか死ぬかみたいなところであえいでいたヨーロッパは、アメリカという後ろ楯でかろうじてうまくいっていたのに、その後ろ楯を失った形になって、全体として不況になっていく。アメリカの側でも、もともとそれはバブル景気ですから、結局そのバブルが、まさに今日と同じような形で弾ける。バブル景気である以上は、本来は、有効需要はほとんどなかったわけですから、大恐慌になる。アメリカ経済が失敗することで、ヨーロッパも、そして日本も、決定的な大恐慌に入っていって、ものすごい失業率になる。そんなふうな時期になるわけです。日本ではこれを「昭和恐慌」と呼んでいます。  とにかく、資本主義の転換期が、あるいは資本主義の挫折の時期が、昭和の「近代の超克」的な発想が宿りはじめた時期とちょうど対応しているんだということだけは、とりあえず確認しておきたいんです。  ここで、僕はちょっと、資本主義とは何か、資本とは何かということを少しだけ説明しておきます。そうしますと、こうした変化が、ウルトラナショナリズムの出現や、「近代の超克」論のような思想の出現と、どのように関係していたか、ということについての見通しがつきやすくなるんです。 †〈資本〉という現象[#「〈資本〉という現象」はゴシック体]  これは、僕はときどきそういうふうに言っているので、僕の本を読んでいただいている方はおわかりだと思いますが、僕は資本とか資本主義という言葉を非常に広い意味で使ってみたいと思っているんです。資本とか資本主義というのは、狭い意味で言えば経済的な現象なんですね。しかし、経済的な現象というのはそれだけで独立して成り立つわけではなくて、大きな社会現象の全体に支えられて起きているんです。経済的な水準では資本という現象を結露させるような社会的なメカニズム全体を広い意味での資本主義と考えたいんです。狭義の資本、経済的な資本と、広義の資本とをどうしても区別しなくてはならないときには、後者の方を、〈資本〉と表記して、前者から区別します。  では〈資本〉とか〈資本主義〉は、一体どういうことなのか。厳密な説明をしている暇はないので結論だけ言います。  私はずっと前からこういうふうに考えているんです。「経験可能領域」という言葉を使います。あまり詩的な響きのない言葉ですが、これは、次のようなことです。僕らの行為や体験というのは、意味づけられており、まさにそのことによって可能になるんです。意味づけられているということは、それが、ある状況のもとで、適切であるか不適切であるかといった区別が付されているということです。そういう意味づけをされている行為と体験の領域のことを、一般的に「経験可能領域」というふうに呼びたいんです。つまり、規範が、ポジティヴにかネガティヴにか意味づけるべく準備している——予期している——行為と体験の集合です。  意味づけられておらず、それが、何らかの正常な行為をしたとは見なされない場合もたくさんあるわけです。あまりにも突飛で、規範が照準していない計算外の行動もあるわけです。そういうものは、経験可能領域に入っていない。これもよく出す例ですが、皆さんがたとえばここで居眠りをするとか、小さな声で私語をするといったことは、計算内に入っており、不適切な行為のうちにカウントされるわけですが、たとえば、誰かが突然大声で歌を歌いだすとする。こういう場合は、単に不適切性の域を越えていますね。こういうものは経験可能領域の埒外ですね。つまり、それは、適切であったり、不適切であったりする何らかの行為をしたことにすらならない。そういう場合を、僕は、「正則性」の範囲の外にある、と表現することにしています。  経験可能領域ということと〈資本〉がどういう関係にあるのか。短絡的に結論だけ言ってしまえば、〈資本〉というのは、社会的に承認されている経験可能領域を普遍化していくダイナミズムなんです。経験可能領域を、より包括的なものへと次々と置き換えていくダイナミズムが、〈資本〉という現象なんです。そして、こういうダイナミズムが、社会的にノーマルなものとして——正則なものとして——認められているような社会システム のことを、〈資本主義〉と呼ぶんですね。  こんなふうに結論だけ述べても、ピンとこないかもしれないので、少しだけ説明を加えておきます。たとえば、皆さんもよく知っているように、資本主義では利子というものが認められていますね。しかし、よく知られているように、高利貸しとか利子を取るという行為は、貨幣らしきものが人類史の中に登場して以来ずっとありますが、長い間、利子を取るということは、あまりよいことではない、と思われてきました。「高利貸し」と言いますが、別に利子が高すぎるから高利なのではなくて、そもそも、利子を取るということが、過剰なのであって、高利なのです。しかし僕らの社会はもう利子を取ることが悪いことだとは思いませんね。利子を払わないほうが悪いんです。  なぜ、利子というものが、ある時期は非常に悪くてある時期ではあたりまえのことになったのか。これはどう違うのか。利子を取るほうが悪いという感覚は、簡単に言えば、ずるいということ、アンフェアであるということですね。なぜアンフェアかというと、貸すときと返すときとでは、異なる規準が採用されているように見えるからです。これは、考えてみると、当然の感覚です。規範とかルールというのは、時間的に持続する一貫性がなくてはならない。行為の度に変化していては、規範やルールとして成立しえないのです。規範やルールが時間的に一貫しているということは、言い換えれば、経験可能領域が時間を貫いて同一性を保っているということです。そのことと相関して、人格の時間的な同一性ということも成り立つ。規範やルールが同一であり、その下での、同一性《アイデンティティ》が持続するからこそ、過去の行為に対して、私たちは現在において責任を問われるわけです。利子が不正だと判断されたのは、こうした、規範やルールの一貫性が損なわれているように見えるからです。  さて、そうだとすると、逆に、一定の利子を取ることが自明視されているシステムでは、規範やその下にある経験可能領域が変化していくことが容認されているということです。たとえば、六カ月前に借りたお金を、利子を付けて返却するということは、その間に、ほとんど知覚できないレベルであっても、経験可能領域が変化しているということ、あるいは少なくともそのような変化があったと想定されているということになるわけです。先に、〈資本〉というものは、経済的な現象に限られないと述べたのは、こうしたことに関係あります。通常、社会システムは、経験可能領域が定常であるがゆえに、崩壊せずに、安定性を保てるわけです。がしかし、〈資本主義〉という社会システムは、これとは違い、経験可能領域が常にダイナミックに変化していくということ、そのことを通じて安定性をたもっている。つまり常に変化しているがゆえに定常でありうるようなシステムが、〈資本主義〉です。そして、経験可能領域のこうした変化を許容し、また促進するようなシステムの下でなくては、経済的な局面で、利子が正当化されないし、またそもそも剰余価値が発生しないわけです。  経験可能領域は、〈資本主義〉のシステムのもとでどう変化するか。それは、普遍化していく方向で変化していくのです。そういう場合に、経済的には、利子や剰余価値が発生しうるのだ、ということを説明することができますが、細かい説明は、ここでは省略いたします。私の書いた『資本主義のパラドックス』(新曜社)や『性愛と資本主義』(青土社)などを参照してください。   [#小見出し]3 「近代の超克」論 †種としての国家[#「種としての国家」はゴシック体]  以上の〈資本主義〉の話を前提にして、「近代の超克」論の話をしたいと思うんです。  これから「近代の超克」論にも深く関係していた京都学派系列の哲学者、あるいは同時代の関係が深かった哲学者のことを話します。その前に大体こういうことをまず念頭に置いてほしいんです。代表的な人として三人ぐらいの哲学者の名前を出しますが、まず念頭において欲しいことは、彼らにとって、意識的にも無意識的にもヘーゲルが仮想的な敵だったということです。あるいは、もう少し精密な言い方をしておけば、ヘーゲルを批判的に摂取し、乗り越えようとしている、ということです。このことから、僕が仮説として導くことは、先に言っておけば、「近代の超克」論という思想は、ここで書いたような〈資本〉のダイナミズムと連動をしているというか、パラレルな関係にある、ということです。そういうふうに思うんです。経済的なカテゴリーとしての資本というよりも、今言った広義の〈資本〉と、パラレルな関係にあるということを言いたいんです。  そのことを一番わかりやすく示しているのが、田辺元という人です。田辺は、もちろん、京都学派で最も著名な哲学者である西田幾多郎の影響下にあった人で、西田よりも若いわけですが、西田に対する最も厳しい批判者だったのも、この人です。この田辺という人の哲学は、一般に「種の論理」と言われている。種の論理が、どのような意味で必然的だと考えられていたか、ということを、ごく大まかにですが、説明しておくとこうなります。  田辺という人は、哲学というのは、全部、推論的なものである、と考える。推論とは、概念による媒介です。つまり、推論は、概念を与えること——要するに判断——に媒介されなくてはありえないわけです。だから、媒介されていない直接的なもの——判断に先立つ直観のようなもの——は哲学的な認識にはなりえない。論理は、いかなる直接的なものをも否定する「絶対媒介」でなくてはならない、ということになるわけです。  もちろん、どんな論理でも、媒介できない直接的なものを何か前提にせざるをえない。そういう意味では、直接的なものを完全に消去できない。しかし、その直接的なものでさえも、媒介そのものの(自己)否定として——つまり媒介|できないもの《ヽヽヽヽヽヽ》という形の媒介の否定を通じて——確認するほかないわけです。種の論理というのは、こういう、媒介の絶対的な優位という考えから出てきます。それは、ヘーゲルの論理学と対照させるとわかりやすい。  ヘーゲルの論理学は、必ず、「個—種—類」という——あるいは同じことですが、「個別性—特殊性—普遍性」という——、三個一組のセットを再帰的に適用することで展開していくんです。この中で、種こそが、媒介的な位置にある。田辺の論にしたがえば、個を、直接に把握することはできない。類もまた、最高度の普遍性の水準なので、つまりそこから類を区別するところの外を想定できないので、直接的に把握するしかないわけですが、それはできない。だから、田辺の考えにしたがえば、内容がある、有意味な判断になりうるのは、媒介的な位置にある、種の特殊性のレベルだけだということになります。直接に個を把握することもできないし、いきなり類の普遍性のレベルに至ることもできず、常に種の特殊性のレベルを媒介にするしかない、というわけです。これが田辺の種の論理の骨格となるロジックです。  これだけでは、抽象的な論理学に過ぎず、実践的な意味はないように思うかもしれません。しかし、田辺は、この論理を、社会の原理とも見なすわけです。その場合、種の水準に対応するのが、具体的には国家です。個は、もちろん個人です。類は人類です。理解のために、暴力的に単純化すると、こうなります。「私は私である」という個の水準に直接に向かう自覚は、内容がありませんね。しかし、逆の極端、「私は人類である」という自覚も、これまた実践的には無内容です。というのも、これだけでは、どのような人間として存在し、どのような道徳にコミットしているかが示されないからです。  内容があるのは、「私はどこそこの共同体に所属している」という自覚、どのような特殊な共同体に所属しているのかという自覚だけです。つまり、自分がどの国家に属しているのか、という自覚は、有意味な自覚たりうるわけです。このときには、どのような特定の規範、どのような特殊な道徳にコミットしたのか、ということが示されたことになるからです。  ただ、田辺における個/種/類の関係、とりわけ種と類の関係は、厳密には、もう少し複雑です。田辺は、種へコミットすることを媒介にしてこそ、潜在的には、類の普遍性への超出が果たされる、と考えていたのです。要するに、顕在的・自覚的な種への所属を媒介にして、潜在的には類への所属が果たされるわけです。個が種を媒介にして、種の特殊性を類の普遍性に向けて否定することが可能になる、というのが田辺の論理です。なぜかというと、個が、単に与えられた事実としてある特殊な種に属しているということではなく、自ら主体的にその所属の事実を引き受けるということは、所属することも離脱することも可能であるような選択の対象として、その「種」にかかわるということを意味するからです。だから、種に主体的に所属することは、種を偶有的なものと見なすこと、他でもありうるものとして相対化すること、したがって種を否定して類へと向かうこと、そういう可能性を秘めていることになるわけです。  こうして、種に対して「否」を言い、類へと向かう可能性を秘めている限りにおいては、その人は自由な個人として種に対しているわけですから、類は、人が個として種を越えうることの根拠となっている。これが田辺の議論です。だから、田辺のいう「種」、つまり「国家」というのは、普遍性へと開かれている国家、単一の民族によって構成された国家ではなくて、多数の民族の共存を企図している国家だということは、留意しておかなくてはならない。  こうしたいくぶん複雑な構造があるわけですが、ともあれ、田辺においては、種としての国家への主体的なコミットメントが、人間の道徳性を規定するものとして強調されます。人間は、個としても、類としても、道徳的(規範的)に無内容ですが、種である国家に所属しているものとして自己規定することを通じて、はじめて道徳的(規範的)な内容を得ることができるからです。  だから、田辺の議論というのは、聞くからに、「国家主義《ナショナリズム》」的です。そして、ファシズムにも親和的に思えます。実際、田辺は、日本の軍国主義的なファシズムを結果として肯定していると見なされても仕方がないようなことも言っています。  が、しかし、同時に、この人は、ファシズムとの距離を自覚的に取るようになったのも早かった。田辺は、これから名前を出す哲学者の中で、最も端的に国家主義的な色彩を帯びた哲学を展開しているようですが、最も早くから、自覚的にファシズムからの距離を取り、懺悔《ざんげ》もしているんです。ストレートな国家主義者にとってはファシズムというのはむしろ失望すべき内容を持っていたことがわかるんです。 †〈資本〉の媒介的性質と「種」[#「〈資本〉の媒介的性質と「種」」はゴシック体]  こうした田辺の哲学と〈資本〉とがどのように関係しているかという話をします。今のところまでは田辺の本を読めば書いてあるわけですが、これからは少し解釈です。今述べたような田辺の論理学や哲学のような議論は、観念的には、誰でも一応内容的に把握できるかもしれないけれど、これが、社会的に広範な影響力をもったりするまでに人々を納得させる場合には、それにふさわしい社会的な文脈がある。その文脈というのは、やはり〈資本〉ということと関係がある。  僕は〈資本〉というのは経験可能領域を普遍化するメカニズムだと言いました。それは言い換えるとこういうことでもある。人間は、さまざまな関係性とか共同性に属しており、埋め込まれていることから、それに応じてさまざまな特殊な性質を帯びています。〈資本〉の普遍化のメカニズムというのは、こうした特殊性を、どちらでもよいものとして、どんどん還元していくダイナミズムということです。僕の考えでは、こうした〈資本〉のメカニズムが活性化している文脈でこそ、田辺のいま紹介したような哲学は、ある説得力を備えたものとして出てくる。  もうちょっとかみ砕いて説明するとこういうことです。たとえば、皆さんはどこかの共同体に属していたり、どこかの人と親しかったり、誰か特殊な人々に仲間意識を抱いたりしている。つまり、何かの関係性に入っていたり、どこかの共同性の中にいるわけです。そして、それに応じてさまざまな特殊な性質を引き受けたり、特殊なルールや規範に従ったりして生きているわけです。  しかし、〈資本〉というのはそういうことに無関心《インディファレント》なんですね。ここが贈与と違うところです。たとえば仲がいいから安くしたり、贈与したりするということは、市場の原理ではないですね。市場での交換は、そしてその背後にある〈資本〉の原理は、その人がどのような共同体の出身であるかとか、どういう特殊な背景をもっているかということに、基本的に無関係なんですね。これが、人々の特殊な性質を還元していく、ということです。  さまざまな共同性とかさまざまな関係に由来する、特殊な足かせから解放されることで、可能な行為と体験の領域が、つまり経験可能領域がより包括的なものへと移行する。それが〈資本〉の普遍化のメカニズムということです。マルクスは、人を共同性の桎梏から解放していく資本の働きを、「資本の文明化作用」と呼んでいます。  こうした〈資本〉の普遍化の作用というのは、終わりのないプロセスです。つまり、それは、常にその度に、より包括的な普遍性へと向けて、人を解き放っていくわけです。このことは、逆から見ると、〈資本〉による経験可能領域の普遍化は、常に未完成であり、その度に人間を特殊な経験可能領域の内に止めおくしかない、ということでもあります。〈資本〉が指向している普遍化は、極限にまで押し進められて完結してしまうということはなく、常に、ある特殊性の水準で、いわば早産してしまうわけです。〈資本〉は、普遍化への指向の中で、人間を特殊な経験可能領域の内に止めるわけです。  人間を、特殊性の極である個(個別性)と普遍性の極である類との間に挟まれた「種」の水準において把握しようとする田辺の哲学は、こうした〈資本〉の運動に見合ったものだと見なすことができます。田辺がいう「媒介性」ということは、永続的な普遍化の過程であるところの〈資本〉が人間に与える、中間的な位置——類と個の中間的な位置——に対応しているわけです。〈資本〉は、経験可能領域を普遍化していく指向の中で、実際には、人間を特殊な経験可能領域の内部に止めると述べました。このことは、普遍性への指向が、その経験可能領域の特殊性の水準において、現実化している、ということです。  ところで、田辺は、種への主体的なコミットメントを通じて、種を相対化したり、否定したりしうる類への潜在的な所属が果たされる、と論じていたわけです。こうした種を媒介にした類への参加——こうしたあり方を田辺は「類的種」と呼ぶわけですが——、こういう着想は、〈資本〉の、常に中途で挫折し続けるしかない普遍化の作用に、そのまま哲学的な表現を与えたものだ、と解することができるのではないでしょうか。そうすると、田辺の、ヘーゲルをちょっと改良したような哲学というのは、〈資本〉の運動というものといわば同調しながら出てくる哲学だということがわかってきます。 †排除された極限を主題化する[#「排除された極限を主題化する」はゴシック体]  さて、田辺よりも年輩で、田辺にも多大な影響をもたらしたと思われる哲学者、京都学派でもっとも著名な哲学者である西田幾多郎に話題を転じたいと思います。先にも述べたように田辺は西田を批判しています。だから両者は、互いに相手の論に違和感を持っていたはずです。両者の違いはどこにあるのか。  僕の考えでは、二人の哲学は、基本的には同じ方向をさしています。が、その方向に向かう徹底性において異なっているのです。西田は田辺よりもっとずっと徹底した哲学者だと思います。ただ、そうした「量」的な違いもある閾値を越えると、「質」的な相違として現れるということではないかと思います。  西田の方が徹底している、というのは、次のような意味です。田辺は、哲学は絶対媒介でなくてはならない、と言っている、と紹介しましたね。逆説的ですが、田辺は媒介されているということに拘泥したがゆえに、かえって媒介されないものを前提にせざるをえなくなったように思うのです。媒介されない前提というのは、言うまでもなく、特殊性と普遍性の両極限です。両極限が、議論から排除されるのは、これらが媒介されえないからであり、もしこれらを直接に議論の主題とすれば、まるでそれらを媒介されうるものとして実体化することになるからです。が、しかし、まさに論じられないことによって、そうした両極限は、田辺の議論の非措定的な、つまり媒介されざる前提となって、彼の哲学の一貫性を支えることになっているように思います。要するに、両極限を媒介可能なものとして実体化することを避けることで、かえって、それ自体として直接的に存在する実体として、前提されてしまうことになったわけです。これに対して、西田は田辺が明示的に対象化することを避けた両極限を主題としている。それだけを主題としたと言ってもよいくらいです。  ところで、先に田辺の哲学の構成は、〈資本〉のダイナミズムを映し出すものだということを示しておきました。田辺が明示的に論ずることを避けた極限、とりわけ普遍性の極限こそは、〈資本〉が、あるいはシステムとしての〈資本主義〉がその盲目の運動を通じて目指している地点だということができます。そうだとすると、西田哲学は、哲学的な身振りにおいて、〈資本〉の運動が照準している極限を先取りしてみせるものだと解釈することもできるわけです。こうした意味での西田哲学の基本的なポジションを理解するには、彼の根本的なキー概念のひとつ、「場所」という概念から入っていくのが、比較的わかりやすいと思います。この概念を暴力的に単純化して説明することから始めようと思います。  まさに「場所」(一九二六年)と題された論文で、西田はこう論じています。存在というのは、すべて「何かに於いてある」という構造をもっている。存在するもの同士が互いに関係することができるのは、それが同じものに「於いてある」からです。このあらゆる存在に対して、「於いてある」という構造を可能にしているものが場所です。そうだとすると、場所というのは、存在するあらゆるものに妥当する普遍的規定だということになります。西田は、田辺によっては排除されている——しかしそのことによってかえって前提にされてしまった——普遍性の極限を「場所」ということを論ずることで主題化していたわけです。 †主語と述語[#「主語と述語」はゴシック体]  西田は、同じことを判断の構造との関係で議論しています。その議論をみると、西田が田辺があえて論じなかった極限をこそ問題にしようとしている、ということがわかります。というのも、田辺のいう媒介の絶対性ということも、判断のもっている構造から、導かれていたからです。西田にとっては、判断というのは、つまり主語に述語を結びつけるということは、主語を、述語において指示されている、より普遍的、より包括的なカテゴリーに包摂していくことです。たとえば、「桜は植物である」という判断などがその典型です。だから、判断というのは、田辺の問題にした、「個(個別性)—種(特殊性)—類(普遍性)」という三項図式で考えれば、特殊性の水準から普遍性の水準へと上向することだと言えます。その極限に、もはやそれ以上包括的な類概念をその上に持たない、もっとも普遍的な述語があるはずです。それを主語にして、より包括的な述語のもとに包摂することができない。こういう極限の述語を、つまり「述語となって主語とならないもの」を、西田は、「述語的一般者」と呼んでいます。この述語的一般者が指し示しているのが、あの「場所」であることは、すぐにわかると思います。  おもしろいことに、逆の方の極限をとっても、つまり個別性のほうの極限をとっても、実質的には同じ結論が得られるということです。極限の個別性をとると、それが、極限の普遍性と同じものに反転してしまうんです。個別性の極には、「主語となって述語となりえないもの」があるわけですが、それが呈する普遍性のことを、西田は「具体的普遍」と表現しています。これはどういうことか。僕はこんなふうに解釈するとわかりやすいのではないかと考えています。  何らかの個物とか、個人を判断を通じて規定すると考えてみる。たとえばある個人を規定する。その人について、その人は学生であるとか、日本人であるとか、女であるとか、さまざまな述語を与えることができる。しかしどの述語によっても、その個人を完全に規定することはできない。「この人は学生である」という判断がなされても、仮にその人が学校を退学しても、なお「この人」である以上、「学生」という述語はその人を規定するものとはなりえない。どの特定の述語も不十分なだけでなく、それらすべての述語を束にしても、その個人は規定できない。  しかし、他方で、その個人や個体は、それらの特殊な述語のいずれをも可能性としては受け付けうるわけです。「この人は学生である」といえるだけではなく、たとえば「この人が教師になったならば」という仮定を僕らはやろうとおもえばやれるわけだから、この個人は、潜在的には、「教師」という述語も受け取ることができる。  そうすると、ある個人や個体は、単に「これはこれである」という言い方でしか十全には規定できないことになります。「これである」というのは、もはや述語とは言えないので、結局、「これ」は主語にはなりえても述語にはなりえない、ということになるわけです。しかし同時にそれは多様な——原理的には任意の——特殊な述語を結びつけうる。だからこそ特定の述語や、その有限の束(有限個の述語の集合)によっては、規定できないわけです。つまり「これ」は、可能性としては何ものでもありうる普遍的なXです。これこそが「具体的一般者」です。「これ」が任意の述語による規定を受けうる普遍性に到達するのは、個体については、結局、それが例の普遍的な「場所」に|於いて《ヽヽヽ》あるということ以上のことは、何も確定的なことは言えないからです。  こうして、類のほうの極限をとっても、また個のほうの極限をとっても、場所の普遍性に到達する。場所は、少し単純化して言ってしまえば、そこにおいて個体が(特殊的に)分節化される普遍性の領域です。しかし、場所そのものは、通常の判断を使って積極的に対象化することはできない、ということが肝心です。場所に肉薄しようとすると、主語にならない述語(あるいは述語にならない主語)に至りついてしまうからです。 †場所と市場[#「場所と市場」はゴシック体]  いまもっとも明快な認識(判断)の領域に即して、普遍性の領域が諸判断のかなたに想定しうるということを述べてきました。その普遍性の領域が判断的一般者です。西田は、同様な極限の普遍性を、認識を支える「自覚」の場面においても、またその自覚を可能なものとしている行為や表現の場面においても、想定しうるということを、基本的には同じ論理によって、示そうとしています。自覚の場面で、諸自覚を支える普遍性を「自覚的一般者」、行為(表現)の場面における普遍性を、「行為(表現)的一般者」と呼びます。  判断の構造に即して抽象したことを、行為の問題へと一般化することが許されるのだとすれば、西田の言わんとしたことを広く実践の領域と類比的に対応させることで理解を深めることができるかもしれません。端的に言えば、西田の哲学の骨子を、ここでも〈資本〉や資本主義的な市場の性質と類比させてみることができるように思うわけです。  今、西田の判断論において、究極の主語としての個体は、何ものにでもなりうる「これ」にまで還元される、ということを紹介しました。  これは十分に発達した貨幣経済のもとにある資本主義的な市場が、商品あるいは商品所有者に対してなす還元の作用と類比させることができることです。商品は、言うまでもなく、さまざまな質的な性質によって特殊化されます。特殊であるかぎりの商品こそが、商品の使用価値です。しかし、市場においては、商品は使用価値としてではなく(交換)価値として評価される。(交換)価値としての商品は、市場の内部の任意の商品と相等性や不等性を主題化しうる普遍性として存在しています。市場はだから「場所」のようなものです。  市場がこのような性質をもちうるのは、貨幣が十分浸透している場合だけです。たとえば物々交換のもとでは、物は使用価値としての特殊性のままに関係しあいます。どの特殊な使用価値でもありうるという潜在的可能性を実体化したものが、貨幣です。つまり貨幣というのは、西田のいう「判断的一般者」をそのまま具現する実体だとみなすことができるわけです。  西田の哲学はとても深遠そうに見えますが、それは市場における貨幣の働きを一般化したものとして理解することもできるわけです。言いかえれば、それは、発達した〈資本主義〉をその説得力の源泉としている哲学だとみなすこともできるのです。 †社会的な場所[#「社会的な場所」はゴシック体]  西田の哲学の内容と社会的な現象やメカニズムとを対応させる、こうしたやり方は、決して強引なものではありません。というのも、こういう解釈はある程度は、西田その人が直接言っていることから示唆されるからです。一九三二年に出版された『無の自覚的限定』に収録されている「我と汝」という論文が、たとえば、こうした解釈へと誘うわけです。  この論文の内容について論じるまえに確認しておかなくてはならないことがあります。「場所」というのは、決して、何ものとしても規定できない。場所がなんであるかということを積極的に特殊化することは、場所の本性上できない。場所は、何ものとしても存在していないわけです。その意味で、「場所」は「無」だということになります。  西田によれば、個体、個物というのは、この無であるところの場所の自己限定によって成立するのです。つまり、場所が自己言及的《セルフリフアレンシヤル》に自己限定して、その内部を分節することで、個体がそれぞれに特殊的な規定をになったものとして成立してくる、という構図で考えているわけです。しかし西田としても、無のこの自己言及的な限定がいかにして生ずるかを問わざるをえないんですね。  その問題に答えるのが「我と汝」という論文なんですね。彼はこう考えるんです。場所というのは、社会的な空間なんだと。そういうふうに考えると、場所のなかで限定されてくる個体というのは、物であるよりも原則的には、個人であるとみなすほうがわかりやすいということになりますね。自己限定は、個人と個人の関係、自己と他者の関係、我と汝の関係のなかで生じる、という考えになってきます。私が私ならざるものに出会う。私が汝に出会う。汝というのは私に対する純粋な差異です。決して解消できない絶対の差異だということが説かれます。私と汝の関係は、だから、相克的《コンフリクテイブ》な関係です。最初から約束とか、合意とかが成り立つことを期待できないような、相克的な関係なんです。だから、自己と他者の間に闘争とか、葛藤とか、あるいは——言語を使っていれば——討論などが生ずる。こうした相克的な関係を通じて、自分が何であるか、相手が何者であるか、そういうことが限定され、規定され、特殊化されていく。こういうかたちで、場所の自己限定というのは実現すると、考えられているわけです。  重要なことは場所が最初から、構造をもっていて、その中での位置で自己や他者が限定されるわけではない、ということです。場所は共同体ではない。ここで共同体と言ったのは、社会的に妥当する規範によって、互いに他者の行為に関して、多くの予期や期待をもちうる社会空間のことです。だから場所そのものについて、それがどのような具体的な性質をもっているか、積極的には何も言えないのです。ただ場所は、その内容についてあらかじめ何も規定できない差異が出会う空間だというだけです。  その内部の個人についても同様です。個人はあらかじめ何ものとしても同定されていない、裸の状態で、場所の内にいる。ただ、その個人は、彼(あるいは彼女)との差異を最終的に解消しえない他者たちと出会うわけです。その関係を通じて、彼は何ものにもなりうる。あるいは、後から振り返れば、何ものにもなりえたんです。相手についても同じで何ものにもなりうるし、なりえたわけです。そういう意味で、場所に|於いて《ヽヽヽ》、個人は普遍性に開かれていることになります。  ところで、基本的に相手に対して相克的な関係を築いてしまうような、諸個人が出会う空間、そういう空間の典型は市場でしょう。こう考えると、西田の哲学が、発達した〈資本主義〉と共振しながら出てきたものだという、ここでの理解が決して突飛なものではないということが、わかっていただけると思います。もし場所が、その内部を諸個人に完全な普遍性へと開く空間なのだとすると、こんなふうに考えても大体間違いないと思うのです。つまり、それを、〈資本主義〉がその極限において目指していた、完全に包括的で、際限なく普遍化してしまった経験可能領域と、本質的には同じものだと考えてよいように思うのです。 †和辻と「共同性」[#「和辻と「共同性」」はゴシック体]  主要登場人物に出そろってもらわなくてはいけないので、和辻哲郎のことだけ少し話しておきます。和辻のことは、今日は、ここでしか話しません。普通「京都学派」と呼んだときに、和辻まで入れるかどうかは微妙なところですが、ともあれ、西田や田辺とほぼ同時代の哲学者として活躍したことは確かです。年齢的には、田辺とほぼ同じ、ほんの少しだけ田辺より若くなります。  僕は和辻の倫理学を、今のように考えた西田との関係で位置づけておくとわかりやすいんじゃないかと思っているんです。和辻は、西田を直接引用することは少ないけれども、西田のことをとても意識していたことは間違いないと思います。ある意味で、二人は、同じようなことを考えていたと思います。  和辻は西田と違い,初めから、社会的なものから発想している。西田も、今し方述べたように、社会的なものについて考えていますが、しかし、もともと社会的なものから始めたわけではなくて、別の文脈で考えていたことをだんだんと深めていくうちに最後に社会的なものに到達したように思います。しかし、和辻は、社会的なものを、しかもかなり具体的に社会的なものを思考することから、出発している。ということは、西田の最終的に到達した地点が、和辻にとっては出発点であったとも言える。この意味で、二人の哲学者の考えていたことは近いと言える。しかし、こうした発想の順番の違いのようなものが、かなり重要な内容の相違と相関してきます。  西田のポイントは、個と他者がいわば裸で出会うんですね。だから、その間には何の共同性もないんです。相手のことはわからない。相手が善意を持っているか、悪意を持っているのかといったことは、まったくわからないんです。そういう地点を、社会的なものについての議論の端緒にしている。  それに対して、和辻の場合は、個人の間に、いわゆる間柄が成り立っているというところが端緒になる。よく知られているように、和辻は、人間は、「|人・間《ジンカン》」であると、つまり「人」の「間」であるとする。だから、人間の本質は間柄です。間柄というのは、簡単に言えば共同性です。人間の間には、共同性が初めからあるわけですね。こうした共同性のネットワークとしての社会的な集合というのは、調和のとれた全体をつくるはずです。こうして、和辻は、人間の集合が、統一的な全体をつくるということを、初めから前提にして考えているように思います。  西田の場合は、社会的な空間の中で問題になっているのは、私と他者はまったく違うということだけです。それ以外のことは何も決まっていないので、その関係がどのようになるかということについては、あらかじめ何も規定されていない。だから、二人が調和的な関係を持って統一的な集合を形成する保証はない。しかし、和辻の場合は、人間の集合が統一的な全体を形成することが、前提になっている。  統一的な全体をなす社会というのは、要するに共同体ですね。ですから、こうなるわけです。西田の場所というコンセプトが極限的な普遍性というものを代表できるのはなぜかというと、自己と他者がまったく共同性を持たない関係で出会うからですね。そうであるからこそ、場所の内部で、人は潜在的には何ものにもなりうるわけです。  しかし、和辻の場合は、自己と他者が調和的な関係にあり、そうした関係の全体が統一的な共同性をつくることを前提にして考えなくてはいけない。ですから、西田の場所と違って、和辻が主題にする社会的な空間というのは、普遍的な空間ではなく、ある特殊な規範や文化が妥当している空間です。そうした共同性とは、具体的には何か。それは、民族であるとか、国家であるとか、そういうことになりますね。だから、和辻の場合は、結果的には田辺と似てくるんですね。  だから、和辻の場合は、西田と同じような問題に逢着してはいるのですが、間柄の調和を前提にしてスタートするために、究極の普遍性の場所に対応する問題は出てこない。それはある特殊な共同体の中にある集団というのに、基本的に人間は分割されている。だから、たとえば「風土」ということを書くんです。その風土によってそれぞれに特殊な領域、特殊な文化圏に分かれていく。そういうさまを捉えていくわけです。まとめると、和辻の出発点は西田の到達しようとしたところと基本的に同じようなところにありながら、西田と違って、どこかで初めから共同性を仕組んでおくという議論になっているということです。  これで大体主要な論客の議論の位置づけというものができました。   [#小見出し]4 天皇制ファシズム †抽象的な超越性[#「抽象的な超越性」はゴシック体]  さて、この上で、今日の最後の部分に入りますが、これらの議論を少しずつ、当時のウルトラナショナリズムの文脈の中で、あるいは天皇制ファシズムとの関係の中で、どのように位置づけうるかということを考えてみたいと思うんです。  こういう状況を起点にして考えてみてください。今、諸個人というのは何ものでもないままに、集合している状態を想定してみます。そこでは、諸個人は具体的には何ものとしても規定されていない。人々は、抽象的な個人にまで還元されているわけです。まさに抽象的であるがゆえに、その個人は、可能的には何者にもなりうる。その意味で、普遍的な個人でもありうる。こうした抽象的で普遍的な個人が出会う領域こそが、西田のいう場所でしたね。そして、その「場所」にイメージを与える現実が、市場でしたね。〈資本主義〉というのは、市場に代表される関係性が、社会システムを覆う支配的な関係性になっているような状態だと言うことができます。  市場というのは、抽象的な個人の集合に経済的な表現を与えるものです。同じものに政治的表現を与えたものが、市民社会です。市民社会という表現は、いくぶん観念的なものですが、それに具体的なイメージを与える社会的実体は、都市です。都市というのは、人々が具体的な慣習や、それぞれの共同体的な背景から解放されて、独立した個人であるということだけで出会う空間です。だから、まとめると、何ものとしての特殊的な規定をも受けうる抽象的な普遍性として個人が集合している社会的領域が、さしあたっていうならば、市場であり、市民社会(都市)です。  今、僕は「さしあたって」と、留保をつけました。そうしたのには、理由があるんです。「さしあたって」という言葉を僕は文章を書くときによく使うんです。それは、本当の結論に行く前にどうしても経過しなくてはならない捨て石的な結論を言うときに使うわけです。どうしてこれが、暫定的な捨て石的な言明なのか、ということは、後で説明します。その前に、確認しておきたいことがあります。市場なり市民社会なりにおいて、抽象的な個人が、普遍性の資格において直接に出会えるためには、ひとつ特別な条件が必要です。こうした抽象的な個人の集合が、無条件で成立するわけではない。  個人の集合がまさに単一の集合であることを保証する、エレメントが必要になるわけです。市場や都市における、抽象的な個人の共存が可能であるためには、つまり、それが単なる個人の無意味で、秩序のない集塊であることを超えたひとつのまとまった領域でありうるためには、そのことをまさに保証する超越的なエレメントが必要になるわけです。現実には、具体性を帯びて、それぞれに様々に特殊な諸個人が、抽象的な個人としてある限りにおいては、ひとつの普遍的な領域(場所)に所属していると、みずからを認知しうるためには、そうした領域の単一性を構成する超越的なエレメントが必要です。  最初に論理的なストラクチャを言っておけば、その超越的なエレメント自身が、内容的な限定性から解放された抽象的契機でなくてはならない、ということが肝心です。というのも、その超越的なエレメントの存在そのもののうちに含意されていることからの、いわば、肯定的な言及をまってこそ、内部の各個人・各個体は、特殊的な規定から解放された抽象性へと還元されうるからです。抽象的な超越性からのポジティヴな言及によってこそ、現実には特殊であるところの諸個人が、抽象的な個人でもありうるものとして規定されるわけです(図2)。 [#図2(fig2.jpg、横265×縦210)]  市場のことを考えると、このことは容易にわかってもらえると思います。市場において、諸商品は、その使用価値としての特殊性から解放された(交換)価値に還元される。あるいは、人は、(交換)価値の所有者にまで還元される。そうした還元が生じるのは、貨幣が、あるいは金が存在しているからです。商品同士の等価関係は、それらがともに貨幣の等量に等置しうるからです。貨幣とこのように関係づけられるからこそ、それらの商品は同じ市場に属しているとみなされうるわけです。貨幣に言及されることで、商品は商品になるわけです。もう少し厳密にいえば、商品は、それぞれに特殊に具体的な使用価値なのですが、貨幣との交換可能性が想定されうる限りで、抽象的な(交換)価値でもありうるものとして規定され、まさに商品になるわけです。物々交換では、そうはいきません。物々交換の場合には、それぞれの物がその特殊性のままに対峙しますし、また個々の交換がみな独立した交換であって、交換される物の全体が単一の市場に属していると見なすこともできません。  市場がもっともわかりやすいので、そういう例を出したわけですが、同じことは、市民社会や都市に対しても成り立ちます。それらが、まさに単一の社会の領域であることを保証するような超越的なエレメントが必要なはずです。  重要なことは、この場合、超越的なエレメントは十分に抽象的でなくてはならない、ということです。たとえば、貨幣は抽象的です。このことは、貨幣が普通の商品ではない、ということのうちに示されています。他の商品と同じように、貨幣の使用価値ということを問題にしてはいけないんです。だから、貨幣そのものが、他の商品群の仲間に落ちてくることはない。そうなったとたんに、交換可能性の保証としての、貨幣の機能を失ってしまいます。市民社会でも同じで、そこから捉えたときには、現実には多様な諸個人が、ひとしなみに、同じ抽象的な個人として見えるような、抽象的な視点が必要になるはずです。  先に大正時代というのは、都市が社会の元型的なイメージになっている、と指摘しました。またこの時代の中心思潮は、民主主義(民本主義)だと、述べました。つまり、この時代、日本の社会は、基本的には、民主主義的な市民社会として、自分自身を了解していたのです。  ここで注目されるのは、あの目立たない天皇、大正天皇です。明治天皇については、僕らはある具体的なイメージをもっている。それは、典型的には、御真影のような肖像の形態で与えられています。これとの相関で言うと、大正天皇というのは、抽象的なままに、つまり具体的な実在感をともなうことなく君臨する天皇だということができるのではないでしょうか。  論じてきたように、市民社会的なシステムを成立させるためには、抽象的な超越性が、システムの単一性の準拠点になっていなくてはならない。大正天皇が注目されるのは、この抽象的な天皇が、当時の日本の社会にとって、こうした超越性の——すべてではないけれども——ひとつの形態であった可能性があるからです。  厳密に言えば、実に煩雑な手順をふんで作られた肖像写真の形態をとっている明治天皇の身体もまた、単純に具体的な生の身体とは言えず、かなり理念化された、相当に抽象的な身体なんです。しかし、大正天皇の身体は、それについて誰も具体的なイメージをもてない水準にまで、徹底して抽象化されている。それは、人々の前に姿をあらわさないことが、具体的に現前しないことが本質的であるような身体だった可能性があると思います。 †普遍性の格下げ[#「普遍性の格下げ」はゴシック体]  これがまず第一ステップで言いたいことです。ここまでは、それほどむずかしい話ではないと思います。ここで先ほどの「さしあたって言うならば」という留保が関係してきます。今までのところは、第一次近似です。事態は、本当のところ、もう少し複雑です。  今、個体・個人の普遍化した領域が成立するためには、十分に抽象的な超越性が必要だと述べました。しかし、厳密には、完全に抽象的なエレメントというのは、存在しえないんです。純粋に抽象的な超越性というものは存立不可能なのです。したがって、その効力の下に拡がるはずの、個人・個体が完全に普遍的な規定を受けうる領野はありえない。存在しているということが、特殊的に限定されて現れうるということを、つまり何らかの意味で具体的に現前しうるということを、含意しているからです。まさに存在しているということが、純粋な抽象性の否定を含んでいるわけです。端的に言えば、たとえば金です。金の物質としての具体性に媒介されて、はじめて、貨幣としての金の超越性・崇高性が実現されるのです。金の物質としての特殊性から離れて、金の貨幣としての機能はありえなかったはずです。  形式的な論理だけ先に話してから、後で、具体的な実例を出します。超越的エレメントが十分に抽象化されていないということは、それによって保証されている経験可能領域が十分に普遍化していないということです。ところで〈資本主義〉というのは、経験可能領域をより高度に普遍的なものへと置き換えていく運動のことでした。そうだとすると、経験可能領域の——それと相関した社会システムの——単一性を保証する超越的なエレメントは、その度に、未だ十分に抽象化されていないものであることが、判明するはずです。そのとき何が生ずるか。言うまでもなく、より高度な抽象性において君臨する超越的なエレメントへの置換が生ずる(図3の㈰)。もちろん、それは、より包括的な経験可能領域の成立と相即している。このとき、それまでの、いわば中途半端に抽象的な超越性は——より厳密に言えばそうした超越性のもとにあった経験可能領域は——、より包括的な経験可能領域の内部の一つの特殊的可能性へと格下げになる。超越的なメタレベルにあったものが、超越的なものに言及される内在的オブジェクトレベルに格下げになるわけです。言わば王様だったものが平民に格下げになる(図3の㈪)。 [#図3(fig3.jpg、横341×縦250)]  しかしここで話が終わるはずがない。置き換えられた超越的エレメントもまた不十分な程度において抽象的であるにとどまるからです。結局、——完全な抽象性が空虚であるほかない以上は——どのような水準の抽象的な超越性も、十分に包括的な普遍性を保証しえないものとして、置き換えられてしまいます。そうだとすると、十分に包括的・普遍的な経験可能領域は、ただ、超越的エレメントを経験可能領域の内在的要素へと格下げしていくという所作によってのみ保証されるということになるはずです。つまり、超越的なエレメントをポジティヴに措定するのではなく、そうした超越性を内在性へと繰り込むことこそが、最も普遍的な経験可能領域を保証する、ということになるわけです(図3の㈫)。つまり、普遍的な経験可能領域を代表するメタレベルの超越性は存在しないのです。あるいは、もう少しデリケートに表現すれば、メタレベルをオブジェクトレベルへ繰り込むことこそが、最も完全なメタレベルだ、と言ってもよいかもしれません。要するに、もし、たとえば市民社会の普遍性を凌駕する、「真の普遍性」を許容する経験可能領域を有する社会的空間がありうるとすれば、それは、超越的エレメントを内在的エレメントへと還元する所作において成立する、ということになります。  これはたいへん逆説的なことです。普遍的な経験可能領域の全体を保証する超越的エレメントが、それ自体、その経験可能領域の内部の一特殊的要素でもあるということにおいて機能している、ということになるからです。 †「世界史の哲学」[#「「世界史の哲学」」はゴシック体]  こうしたことは、実際の思想のレベルでは、どういったこととして現れるのか。たとえば、今述べたようなことを典型的に代表している思想として、京都学派の第二世代というのか、西田や田辺よりも少しだけ若い京都学派の哲学者たち、高山岩男や高坂正顕が唱えた「世界史の哲学」がある。あるいは、三木清の「協同主義」がある。  あの『文學界』の「近代の超克」の討論会にも、「世界史の哲学」を唱導していた二流の哲学者たちが出席し、いろいろ発言しています。世界史の哲学とか協同主義は、日本のファシズムのアジアへの帝国主義的侵略を正当化したイデオロギーとして、今では、あまり省みられない。それは、とんでもない思想だと信じられている。しかし、僕らは、それを笑うことはできない。なぜならば、世界史の哲学というのは、ポストモダンの今日非常に広く支持されている、文化に対する政治的な態度と、ほとんど同じだからです。その政治的態度というのは、マルチカルチュラリズムです。マルチカルチュラリズムは、一見したところ、とても説得力があり、これを論破することは容易ではない。マルチカルチュラリズムと世界史の哲学は、ほとんど同じものです。  「世界史の哲学」というのは、こういう考え方です。近代において、世界史というのは、実際には、西洋史であった。つまり世界とは西洋だった。これが、世界史の哲学を標榜する論者の原認識です。ここで彼らの論の背景となる論理を、少し脚注的に付け加えておきます。世界が西洋でありえたのは、西洋が、普遍主義的な原理だったからです。もちろん、昔から「帝国」という政治システムは——中華帝国であれ、イスラーム帝国であれ——、内部にさまざまなローカルな共同体を包み込む、普遍的なシステムだったわけですが、そうした古典的な「帝国」は、その普遍性を普遍主義的な宗教によって担保されていたわけです。しかし、西洋、とりわけ近代の西洋は、内部にさまざまな(普遍主義的な)宗教を抱え込むような、つまり「宗教的寛容」の原理のもとに内面の宗教の多様性を全面的に許容するようなシステムであったという意味で、宗教共同体としての古典的な帝国よりも、さらに強い普遍主義だったわけです。もっとも、こういう強い普遍性を有する西洋の普遍主義も、本来は、ひとつの普遍主義的な宗教、つまりキリスト教に由来しているわけですが。ともあれ、こうした西洋の普遍主義のもとにある社会システムを理念型的に描けば、市民社会になる。ともかく、西洋というのは、図2に描いたような、積極的《ポジティヴ》な超越的な原理——たとえば「人間」のような——のもとにある普遍的システムとして描くことができるわけです。  しかし、普遍主義的にみえる西洋だって、そもそも、まさに西洋という特殊な文化に過ぎないではないか。それが、唯一の普遍性として世界化するのであれば、それこそ、特殊性の他への強制ではないか。世界史の哲学にしても、マルチカルチュラリズムにしても、そのように考えるわけです。たとえば、原理主義的なイスラーム教徒にとっては、宗教的寛容という原理も受け入れがたいわけです。つまり西洋の市民社会の原理といえども、決して、普遍的なわけではない。  しかし、世界史の哲学にしても、マルチカルチュラリズムにしても、さしあたっては、西洋に代わる超越的な普遍的原理を積極的に、提起するわけではない。つまり、たとえばイスラーム教のほうが普遍的だ、と主張するわけではない。世界史の哲学やマルチカルチュラリズムが、基本的な主張として掲げることは、西洋を含む諸文化・諸文明の共存やその限りでの相対化であり、それらがどのような超越的原理のもとで統一されうるかを明示的に示すわけではないのです。  そうしますと、世界史の哲学やマルチカルチュラリズムこそは、究極の、これ以上はありえない普遍主義だという印象がもたれます。誰もが、仲良く共存するということだけを、唯一の積極的な内容としているわけですから、反駁しようがない説得力をもつわけです。  しかし、先にも述べたように、こうした世界史の哲学こそが、日本のウルトラナショナリズムを正当化し、同時に、日本のアジア侵略を支持するイデオロギーのひとつともなったわけです。実は、マルチカルチュラリズムに関しても、似たような逆転が生ずる。マルチカルチュラリズムは、しばしば、いささか極端なエスノ・ナショナリズムと結びついている。マルチカルチュラリズムの主張を、一個の政治的な言語行為としてみた場合、その効力の真のねらいは、普遍性の水準のほうにあるのではなくて、むしろ、ある特殊な民族のほかからの分離や自立のほうにこそあるんです。  こうした反転、つまり普遍主義を標榜する者が、そのような大義のもとで、特殊な文化や民族を優越的に擁護したり、支持したりしていくという反転を、彼らの主張が、実践の中で遭遇する偶然的な困難によって、現実化しなかったからだとか、歪曲されたからだと考えるべきではないのだと思います。そうではなくて、ここで作動していることこそ、今し方まで述べてきたようなメカニズムです。すなわち、究極的な普遍主義は、まさに自らをひとつの特殊性として提示するものによってこそ、現実化するわけです。しかも、その特殊性として自己提示するというその所作こそが、そのような立場の絶対的な普遍性を保証するわけですから、そのまま普遍主義へと転化し、外部に対して強圧的な、ときに侵略的なものとしても作用しうるわけです。  ここで、今述べたような思想の理論的なレベルでの展開が、時代の社会変容と連動していたということを、よく理解しておいたほうがよいと思うんです。近代化というのは、ずっと西洋化のことでした。思想や文化の面だけではなくて、政治や経済の面でもそうでした。つまり政治や経済の点でも、西洋が諸特殊性を通約するメタ的な普遍性を代表していたんです(図2)。ところで、先に、ファシズムへと向かう社会変動の発端に、第一次世界大戦がある、ということを申し上げましたね。大戦を境に、西洋の意味が決定的に変わってしまう。西洋が、西欧からアメリカに変わったわけですね。つまりアメリカが、西欧に代わって、超越的な普遍性を代表するシートを占めるはずだった。しかし、先にも示唆いたしましたように、アメリカ自身が、そのことをよく自覚していなかった。そのために、もろもろの特殊的な経験可能領域を通約して代表する超越的な普遍性の座が、空席になってしまうわけです(図3)。そうしますと、メタレベルの視点を欠落させたままに、伝統的な西洋までをも相対化する普遍性を提示しようとして、実際には、オブジェクト・レベルの特殊性へと還流していくという世界史の哲学の思想運動というのは、今述べた、近代化=西洋化の意味の社会的変容ということと、対応していることがわかります。 †無としての場所[#「無としての場所」はゴシック体]  先にも述べたように、〈資本主義〉は、経験可能領域を普遍化していく運動でした。西田の「場所」は、そうした〈資本主義〉の運動の極限にある完全に普遍化した経験可能領域を、理論的に先取りするものだったわけです。  普遍的な経験可能領域が同一性をもつためには、その普遍性の程度に応じた抽象性を有する超越性が、必要だった。ところで、僕らが世界史の哲学などを例にとって見てきたことは、経験可能領域の統一性を保証する超越性は、繰り返し、その経験可能領域に内在する一特殊要素へと格下げされるしかない、ということでした。そういたしますと、究極的な抽象性をたもつ超越性が、まさに超越的なままに、経験可能領域の上に君臨するということはありえない、ということになります。要するに、完全な抽象性というのは、端的な不在ということと同じことになってしまうわけです。  だから、西田はこういうんです。「場所」——つまり完全に普遍的な経験可能領域——は、無だと。あるいは絶対無だと。「場所」という普遍的な領域の存在を保証する超越的なエレメントが存立しえないからです。また、西田は、例の「絶対矛盾的自己同一」という論理を使って、場所に関して、「多と一の矛盾的自己同一」と特徴づけている。これは、(1)多であること、それぞれの要素が多様な個別的特殊性のうちにあること、そうした多様性の中の一つであることと、(2)一であること、普遍的であり、したがって必然的に単一的・統一的であるということ、この(1)と(2)の二つのことがまったく同じことになってしまう、という主張です。このように解釈できるとすれば、西田がこの「多と一の矛盾的自己同一」ということで言っていることは、世界史の哲学に即して確認してきたことを、具体的な内容を捨象して、形式的な骨格だけ取り出したものだということがわかるでしょう。 †否定的超越性[#「否定的超越性」はゴシック体]  繰り返せば、西田によると、場所は無です。このことは、究極の普遍的な経験可能領域の原理的な不可能性を含意しているわけです。究極的な経験可能領域は到達不可能なのです。が、ここで今までの話をまるで否定するようなことを言いますが、まさに、この到達不可能性ということを媒介にして、ある意味で、逆説的な仕方で、普遍的な経験可能領域に到達することができるんです。少し議論がこみいってきますが、このことを説明いたします。  完全に普遍的な経験可能領域は、さしあたっては、到達できない。だから、完全に普遍的な経験可能領域は、どのような経験可能領域も本当の普遍性ではありえないものとして、つまりどのような経験可能領域もせいぜい普遍性を偽装するものに過ぎないものとして、拒否され続けること、そのことのみを通じて志向される、ということになると思います。そのことが、奇妙な逆転を帰結することになります。  ただその「逆転」の内実を説明する前に、重要な脚注を付けておきます。これから述べるような逆説的な転回が、社会的な意味をもつのは、社会システムが〈資本主義〉的なものになっている場合に限られます。〈資本主義〉でなければ、普遍的な経験可能領域への執拗で強迫的な志向性は、社会的に承認されたものとして、定着していないからです。〈資本主義〉というのは、普遍性を追求する欲望を無限化したシステムだと定義してもいいと思うんです。ほかのタイプのシステムは、規範の普遍性の水準を常に特定の限界内に収束させることによって安定化する。しかし、〈資本主義〉だけは、そうではなく、普遍性への追求に終わりがない。  さて、このとき、次のような「逆転」が生じうるのです。普遍的な経験可能領域は、どのような経験可能領域をも拒否しつづけることを媒介にして、志向される。そうであるとすれば、普遍的な経験可能領域は、逆説的ですが、まさに「普遍的な経験可能領域の到達不可能性」ということを確認することを媒介にして、到達されうる、ということになるのではないでしょうか。完全に普遍化した経験可能領域は、未だにそこに到達していないということ、さらに言えば、決してそこに到達しえないということ、そういう否定的な表現を媒介にしてのみ、措定されるわけです。そうだとすれば、とても変なことですが、普遍的な経験可能領域が不可能であるということ、このことを表現し、確認してしまうことにおいて、既に、普遍的な経験可能領域に到達したことになるのではないか。言ってみれば、普遍的な経験可能領域に到達できていない、決して到達できない、ということを知っている者が、最も普遍的な境地に立っているということです。  普遍的な経験可能領域の不可能性を確認するとは、どういうことか。それは、「普遍的な経験可能領域——西田はこれを『場所』と呼ぶわけですが——を保証する超越性」が不可能であることを表現するような、否定的・逆説的な超越性を積極的に措定してしまうこと、そういうことによって確保されるのではないでしょうか。  そういう否定的な超越性は、まさにその否定性を示すような超越性でなくてはならない。それには、だから、次のような諸条件が課せられるはずです。第一に、そういう否定的な超越性は、抽象化されることに抵抗する具象的な実在でなくてはならない。通常の超越性は、抽象的なものへと昇華され、具体的な経験の領域から、いわば撤退することによって、まさに超越的なものでありえたわけです。述べてきたような逆説的な超越性は、この超越性のための(必要)条件を否定するものでなくてはならないはずです。第二に、経験可能領域への内在性を表示するような超越性でなくてはならない。超越的な要素は、一般には、経験可能領域の外部にあって、その内的な一貫性や(一定レベルの)普遍的な妥当性を保証するものとして君臨するわけです。しかし、逆説的な超越性というのは、このことの不可能性を示すものでなくてはならないはずです。一口で言えば、それは、内在的であるということが超越的であることの証しとなるような超越性でなくてはならないということです。 †物としての皇室[#「物としての皇室」はゴシック体]  さて、結論を言えば、日本のファシズムにおいて、天皇というのは、述べたような否定的・逆説的な超越性だったのではないか、ということです。「クラゲの研究家」であるということがそのまま超越的であるということを意味してしまうような超越性。これが天皇によって表現されたのではないか。日本の典型的なウルトラナショナリストにとって、日本国民が天皇の「赤子」であるということが、根幹的な主張です。「赤子」という比喩的な表現においてポイントになっていることは、天皇と臣民との関係がものすごく直接的だということです。天皇がはるか彼方の雲の上に君臨しているのではないんです。天皇と臣下が親子のように親密な関係にあるということが、重要なわけです。だから、天皇と臣下の間を隔てる中間的な制度については、どうしても否定的に評価されざるをえない。天皇の、父に比せられる強さや崇高性よりも、母性的な親密性が強調された理由も、この点にある。臣下を赤子として位置づける天皇というのは、超越的な隔絶性において君臨する超越性ではなくて、内在的な直接性において君臨する超越性だということになります。  西田幾多郎は、昭和十五年に出版された『日本文化の諸問題』で、皇室について少し不思議なことを言っています。これは、その二年前の講義を手直しして作った本ですが、西田が公然と天皇制ファシズムを支持しているように読めるので、物議のもととなってきました。この中で、西田は、「物」という言葉を使って、日本文化の特徴をとらえたり、皇室の意義を哲学的に説明しようとしています。日本文化の特徴は、主体が物となること、主体が物となって知覚し、行為することにある、というわけです。そして、皇室中心ということがまさにそのことを表現しているのだ、という理解を西田は示す。この「物」ということがどういうことか、とても難解で、西田のテクストに明示的な説明はありません。僕は素直に解釈すればよいと思っています。物になるということは、世界から超越しようとするのではなくて、経験的な世界に、他の事物と相並ぶひとつの特殊な事物として、内在するということです。皇室が、この物(になるということ)を代表しているということは、皇室や天皇の超越性が、物としての、世界への内在において、保証されている、ということであり、ここまでの僕が論じてきた趣旨とうまく合致いたします。  ついでに言っておけば、少なくとも歴史上、つまり第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にファシズムが登場したときに、そのファシズムというのが大恐慌と連動して現れてきたということは、やっぱりこの場では考えておいていい。ファシズムと大恐慌はもちろん別なものですから、必ず両者が相伴うというわけではないでしょうが、この文脈では、両者は関係があると思うんです。つまり、大恐慌というのは、いわば超越性の否定なんですね。さっきの話で言えば、金の超越性の否定なんですね。大恐慌というのは長らく貨幣の究極の担保であったところの金の超越性を否定するということだったわけです。こうした、超越性の否定ということが、ファシズムの到来ということと歴史的に一致しているということは、今まで述べてきたことの中で考えると、やはり理由のあることと見なすことができるでしょう。  日本のファシストの多くが、法華経を好んでいます。この事実はよく知られており、ときどき指摘されてきましたが、その意味が、思想的にも、政治学的にも十分に検討されてはこなかったように思います。ファシズムと法華経の関係、あるいはより一般に仏教との関係については、いろいろ言いたいことがありますが、省略します。ただここでの議論と直接に関係していることだけを言っておきます。ファシズムと法華経との親近性のひとつの理由は、法華経が、超越的なもの——つまりブッダですが——の世俗への内在ということを、その特徴的な主張として含んでいた、という点にあると思うのです。超越的なものがまさに世俗のうちにあるということは、今述べた、否定的な超越性のあり方そのものです。  僕は、僕らが今直面している状況や困難が、形式的な構造において、昭和初期のファシズム期のそれと似ていると思います。「近代の超克」論が出てきたころの思想や社会の分析は、今日の私たちの経験を理解する鏡となりうると考えているんです。たとえば、戦前の二・二六事件に対応するような、先ごろのテロが、直接に法華教徒の系列ではないにせよ、やはり広義の——少なくとも自己認知においては——仏教系列の宗派によって行われたという事実が、僕のこうした理解を暗に支持しているように思うんです。  ただ、最後に付け加えておくと、僕は〈資本主義〉の展開=転回が、必然的にファシズムに至りつくと考えているわけではありません。また、西田のように思考することが、必然的にファシズムを擁護するものになる、と言いたいわけでもない。まして、仏教や法華経が、必然的にファシズム的だというわけでもない。それどころか、僕は、ファシズムへの誘惑に真に抗しうるものがあるとすれば、それは、それらの思考や実践のうちにしかありえない、とも考えているんです。 [#改ページ] [#第3章 戦後・後の思想(page3.jpg)] [#小見出し]1 記憶の不在 †妻子の記憶喪失[#「妻子の記憶喪失」はゴシック体]  第一回目の四月に、小島信夫の『抱擁家族』を、一九七〇年の転換を予告する作品としてとりあげましたね。この作品は、戦後の思想の言説の可能性を支えていたアメリカという超越的他者に対する違和を表現している。  『抱擁家族』の暗示に従って、もしアメリカという精神的後ろ楯を拒否するとしたら、そのかわりになるものは何でしょうか。小説では、アメリカは駐日米軍の兵士によって代表されている。この兵士と主人公三輪俊介の妻が浮気をするわけです。三輪とその妻は、結局、この米兵を拒否する。三輪は思わず、「ゴー・バック・ヤンキー」と言ってしまう。このようにアメリカを拒否した場合に、その空席を埋めるべきは誰か? それは、三輪俊介自身、夫であり、父である人物以外にありえないんです。つまり、アメリカの後ろ楯なしに立つ父というものが出てこなくてはいけないわけです。アメリカの後ろ楯がなくなれば、そこに残るのは、自分自身の足で立つ父としての主人公です。そういう構図が出てくるに違いありません。  なぜこの小説を今もう一回復習したか。今年一九九七年の十月に出た『麗しき日々』という、やっぱり同じ小島信夫の作品があるんです。これはいろいろなところで既に論じられている作品ですけれども、『抱擁家族』の後日談という形式を取っている。主人公の名前がそのまま同じになっているのです。つまり、『抱擁家族』がその後どうなったのか、精神的にアメリカから独立した家族がその後どうなったのかということが、九〇年代の中盤過ぎに書かれたこの小説に描かれているわけです。  この作品の中の非常に重要な主題は、記憶の喪失です。つまり、主人公の妻と子どもがともに記憶喪失に陥る。妻は後妻です。『抱擁家族』のときの前の妻は亡くなっていて、その後結婚した奥さんらしいんですけれども、妻は老化のために記憶を失いかけている。それから息子がいるわけですけれども、息子もいろいろな経緯があって、重いアルコール中毒のせいで、やはり一種の記憶喪失になりかけている。  妻も記憶を喪失し、子供も記憶を喪失する。この構造が何を暗示しているかというと、僕はこういうふうに思うんです。記憶の喪失の本当の原因は、父であり夫であるところの主人公、つまり三輪俊介のある生き方というか、スタイルにあるんじゃないかと。だから、妻も記憶喪失になってしまうし、子供も記憶喪失になってしまう。それは妻のほうに原因があるのではなく、子供のほうに原因があるのでもなくて、妻と子供の両方に関係あるところにいる第三者、つまり夫=父である人物に原因があるからだ。  その三輪俊介のあり方とは何か。小説の中ではこういうふうになっている。ある意味で筆者自身を投影しているわけですが、三輪俊介の仕事は小説家なんです。『抱擁家族』のときには大学の先生だったんだけれども、どうやら大学の教師をやめて作家として自立したらしい。だから、三輪俊介の「小説家」という言い方によって象徴されるようなあるあり方、そのあり方が記憶喪失の根本原因ではないか。そういうことがこの小説の基本的なモチーフではないかと思うんです。  実際、この小説は、主人公のことを「老小説家」とか「老作家」という言葉で何度も指示するんです。こういう呼び方で主人公を言いかえているんです。つまり、この作品は、主人公が小説家であるということを強調しているんです。小説家とは何かというと、こういうことだと思うんです。これももちろんそんなに簡単に定義できるようなものではないですが、とりあえず大ざっぱに言えば、小説家というのは、人生に対して一歩退いて、いわば外部の超越的な他者の目になって、人生を密かに観察する者のことだと思うんです。  ナショナリズムについての優れた理論書を出版した、ベネディクト・アンダーソンが小説というものを定義する根本的なスタイルとは何かということについて書いている。その要になる特徴は、「その間 meanwhile」という語法だというんです。小説以前の古典的な物語には「その間」という語法がない。小説になってその言い方が出てくる。「その間」というのはどういうことかというと、主人公のAとBが、たとえばけんかをしていた。「その間」、妻Cは誰か別の男Dと不倫をしていた、というような書き方ですね。この場合、主人公のいる現場と奥さんのいる現場とは離れていて、お互い見ることができないわけです。しかし、小説の作者は「その間」という言葉でその二つを接続できる。つまり、そういう形で全体を俯瞰しているわけです。登場人物たちは、それぞれローカルな場所に封じ込められていて、それぞれの局域からは他方には視線が届かない。しかし小説家だけが「この間」という語によって両者をつなぐことができる。そういうことを可能にする場を占めているのが小説家なんです。ですから、小説家というのは、こういう具合に、登場人物に対して超越的な他者として生を観察し、記録する者です。  すると、『麗しき日々』というこの小説はあるたいへんアイロニカルなことを言っていることになるんです。もしかすると小説家としての父、あるいは夫が原因になって、妻や子供が記憶喪失になっていく。つまり、小説家の視点から人生の真実を記録することが、記憶の喪失という代償を払わなくてはいけない。記録する者の観察の対象となることで、記憶を喪失していく。そういうアイロニーを表現している、ということになるんです。  妻の記憶の変調が最初に現れてくるのは、こういう場面です。主人公と奥さんは、山歩きをしている。高原を散歩するのが好きなんです。しょっちゅうそういうことをやっている。そして、こういうふうに書いてあります。そのまま読みますと、「道筋は彼にまかせ」、彼というのは主人公です。「それでも妻はだいたいどこを歩いているか、心得ているようだった」。道の選択を主人公にゆだねる妻の主人公に対する、しっかりとした信頼が、それとなく表現されているわけです。ちょっと中略して、ところが「高原の道を歩きながら、彼女はもう半分しか彼の話を聞いていないし、そのうち聞くことさえやめたらしかった。それはひどく淋しいとも、絶望的とも言えた」。つまり、妻はずっと夫について歩く。そこには、妻の夫に対するベーシックな信頼があった。ところが、あるところで突然妻は夫の話を聞かなくなる。つまり、妻が夫に対して無関心になってしまう。「そして、彼女は道にしゃがんで、顔を隠した」。泣いているわけですね。そのあとが、少し興味深い。主人公は妻を見ながら、「そうしているのが、彼自身であるかのように見えた」と続くんです。この部分が、記憶喪失のスタートの部分です。つまり、それまで主人公に対する強い信頼にもとづいて生きていた妻が、あるとき、主人公がまるで存在しないかのように振る舞い始め、そしてそれがきっかけとなって記憶喪失になっていくという構造ですね。これがどうしてかということについて、後でもうちょっと深く考えてみたいんですが、とりあえずこれを今日の導入として話しておきたいんです。  この話をしたのはどうしてか。ここで僕らは思い起こさなくてはいけないのは、九七年という年です。この二、三年の——というか世界的にみれば八〇年代後半あたりからのこの十年間ほどの——大きな思想的な課題として僕らが何度も直面してきたことは、記憶の可能性とか不可能性という問題ですね。このことが、歴史の問題として議論されてきた。このことを一番ラディカルなところで集約している出来事が、ホロコースト、つまりユダヤ人虐殺の事件ですね。こういう出来事は、記憶されうるのか。表象されうるのか。されうるとすれば、いかにしてか。そもそも記憶とは何か。ただ経験されたらそれが記憶として蓄積されていくということではなくて、記憶というのはときに可能であり、また不可能である。そういうことが一体どういうことなのかということが、僕らの非常に大きな思想的な課題だったんです。ですから、この小説の中で主人公がかかわる最も重要な二人の人物が共に記憶喪失になっているということが、非常に示唆的なことだと思うんです。 †思想空間としての戦後の定義[#「思想空間としての戦後の定義」はゴシック体]  前々回(第1章)で加藤典洋さんの『敗戦後論』の第二章に導かれながら、太宰治が、戦中における、(広義の)思想の表現の困難(あるいは不可能性)を、戦争が終わっても、あえて自覚的に保持し続けた、という話をしました。思想というのは、今、人が何を体験しているのか、その体験の真実を捉えるところに課題があります。そうすると、戦争というのは、そうした真実を捉えることの、要するに記憶することの困難として、体験されているということです。  ここから、戦後を逆に定義する。戦後というのは、そういった困難が、つまり思想表現あるいは記憶の不可能性が、幸福にも、消え去った時間である、と。どうしてこうした不可能性が克服されたのかということとの関係で、前々回に問題にしたことは、先ほど始めの部分で言及したアメリカということですね。問題は、実際の国家としてのアメリカというより象徴的な意味でのアメリカです。アメリカというものに象徴される、ある独特の視点のとり方というものが、この不可能性を克服するのに決定的にあずかっていたんだと、そういうふうに考えたわけです。  この場合、僕はこういうふうに考えるべきだと思うんです。こうした、思想についての困難を、消去し、克服してしまうということは、戦争を忘却することだ、と。もちろん、事実としては戦争があったことを知っている。しかし、少なくとも内的な体験としての戦争を忘却してしまうということでもある。誰でも一九四五年に終わった戦争があったことを知っており、日本がその当事国であったことを知っている。しかし、それを、自分自身の現在にとって抜き差しならぬ意味をもったものとしては、記憶していない。現在の自分のアイデンティティにとって、つまり現在の自分が自分であることにとって不可欠な有意味性をもつものとしては、過去の戦争が——多くの人にとって直接に参加したわけではない過去の戦争が——、歴史的に記憶されてはいない。しかも、こうした、戦争の歴史的な忘却は二重化している。つまり、戦争の内的な体験が歴史的に記憶されなかっただけではなく、まさにその記憶されなかったという事実——忘却の事実——が忘却されている。しかし、そもそも、太宰の態度が暗示しているように、戦争は、思想的に表現され、記憶されることに対する、本質的な抵抗として存在していたのではないか。そのように疑ってかかることもできます。  もう一回整理すると、ここで僕が戦後と定義したいのは、この戦中の中にあった表現の徹底的な不可能性みたいなものが消去され、その代償として戦争そのものが二重に忘却されている、そういう段階のことです。何度も言ったように、その表現不可能性の克服のために決定的に重要だったのはアメリカという視座であるとする。そうすると、先ほど僕は六五年に書かれた小島信夫の小説にちょっと言及しましたね。あれはアメリカの影にありながら、アメリカの庇護のもとにあるということに非常に違和感を覚え始めているという小説です。つまり、アメリカというのは、国際政治の制度としてはずっと日本と同盟関係にあるけれども、我々がアメリカというものを自然に受け入れて、アメリカのいわば軍門に下るということに、何らの違和感も覚えないですんだ時期というのは、せいぜい一九七〇年までなんです。それ以降は、自分たちがアメリカの庇護のもとにあるということ自身に、どうしても違和感を覚えてしまう。それにどういうふうに思想的に対決しなければいけないかということが問題になってしまう。そういう時期なんです。  そういうふうに考えると、ここで定義した戦後というのは、大体一九七〇年で終わっているんです。戦後は一九四五年から一九七〇年までだと。その二十五年を戦後というふうに考えたい。そして、今日は、この後どういうことが起きるかということを考える。これが〈戦後・後〉の思想という意味なんです。一九七〇年以降の思想ということで、今日は話をしようと思っているわけです。  少し脚注的なことですが、前々回に、丸山の座談会の言葉を引いて、丸山は初めから戦争に対して傍観者だったと述べた。彼は、戦争をその内部に巻き込まれたものとして体験していない。だから、戦争を初めから忘却している立場なんです。だから、戦後知識人の立場にあって、戦後の思想を最初からリードできた。つまり、まるで戦争に対してコミットしなかったかのように、戦争について言及できる、そういう視点を獲得することが戦後の思想の可能性だったんです。丸山は戦中からそうだった。だから、戦後知識人としての態度をいち早く完備できたんだというふうに考えることもできます。   [#小見出し]2 戦後・後思想概観 †転機[#「転機」はゴシック体]  最初に、七〇年代から今までの話を教科書風に整理をしておきたいと思います。これは現代の話です。現代の話というのは、一方ではすぐにわかってしまうんです。僕らはその中を現に生きているわけだから。しかし他方で、本質的なところは、かえってよくわからないというところがあります。つまり、今、一体何を自分たちがやっていることになるのかというのは、いわば後から振り返って「ああ、そういうことだったんだ」とわかるのであって、まさにその現在においてはよくわからないというところがあるわけです。  〈戦後・後〉、つまり一九七〇年以降の展開を教科書風に整理しておけば、まず七〇年代のちょっと前、六〇年代末期、とりわけ六八年をピークにして七二年に終結を迎えるまでの時期というのは、移行期になるわけですけれども、この時期は皆さんもよく知っているように、学生運動がピークだった時期です。若者の反乱の時期になるわけです。この時期というのは、別に日本だけではなくて、多くのいわゆる先進国でそうだったわけですけれども、近代というものをリードしたアイディアとか、あるいは日本の場合は特に戦後民主主義のような、戦後をリードした理念というものを批判する時期であったというふうに、大体言っていいわけです。ただ、この場合、そういった近代をリードした理念とか、戦後をリードした理念を批判する、その批判の立場自体が、基本的には近代的であったり、あるいは基本的には戦後的な理念を前提にしていた。だから、近代が自己批判している、戦後の理念が自己批判している、そんなふうに言ってもいい時期が六八年から七二年ぐらいの時期だと思うんです。  具体的に言えば、どういうことが自己批判ということになるかというと、たとえば戦後民主主義なんかが批判されるわけだけれども、その批判は、たとえば実存主義的な個人の主体性というものを前提にした議論であったり、ある種の共同性というものを前提にした疎外論という形式をとったりした。実存主義的な個人にせよ、あるいはある種の平等な共同性にせよ、民主主義を支える基盤です。だから、この種の批判は、近代が自分で自分を批判するという、何かある種矛盾したやり方でもあった。非常に卑俗に言えば、このときに批判されているのはアメリカ的なものなんです。理論的に言えば、アメリカ帝国主義だし、あるいは、自由とか民主主義というアメリカ的な理念ですね。そういうアメリカ的な理念とか帝国主義というものが批判されているけれども、しかし、その批判する当人は、アメリカからやって来たカルチャーというものをどっぷり受け入れている。そういうアメリカによってアメリカを批判するという態度が、この時期の批判を戯画的に象徴しているわけです。  ともかくこういうやり方は矛盾している。自分で自分の基盤をたたいていくわけですから。ですから、次第に自分が立脚している立場が一体何であるかわからなくなってしまう。つまり、自分が批判しているんだけれども、その批判の対象となっているもの自身が自分の論拠だったりしますから、自らが立脚するベースそのものをだんだん空虚なものに変えていってしまうんです。  この時期の思想・論法を、最も過激に刺激したのが、吉本隆明だったと、とりあえず言ってもいいと思います。念のために付け加えておけば、吉本の思想そのものは、今述べたような単純な矛盾に冒されてはいません。彼は、自分で真に納得するような形でのみ考えを究めるということを非常に徹底させた、日本ではめずらしい思想家だったと思います。ただ、その吉本の思想が時代と反響し、当時の若者の思考と行動を刺激した、と指摘しておきたいのです。だから、もちろん、吉本の思想の細部には、もっといろいろな可能性があります。が、とりあえず、彼が受け入れられた位置を教科書風に整理すればこうなるということです。 †内向の世代[#「内向の世代」はゴシック体]  こういうふうにして、六八年から七二年くらいの移行期において、社会を批判するための基準となる理念とか理想とか、そういうものがだんだん空虚なものになっていってしまうんです。つまり、自分で自分を批判していくうちに自分自身のベースがなくなってくる。僕は、オウム真理教について書いた『虚構の時代の果て』という本の中で、戦後すぐから、こういう七〇年くらいまでの段階を「理想の時代」と呼びました。六八年から七二年くらいの段階に、社会をこういう形で批判するとか、こういう形で承認するとかいうときの、基本的な理念とか理想というものはだんだん空虚なものになっていくということは、この時期に「理想の時代」の基礎が切り崩されていくということであり、これが「理想の時代」の末期にあたるということです。  このときに出てきたのが、移行期的な、したがって短期的なものですけれども、「内向の世代」と言われている一群の作家、批評家です。「内向の世代」というのは小田切秀雄が使った言葉で。彼は、非常に批判的な意味あいで使っています。しかし、この語が、結果的にはその世代の雰囲気というものをよく言い当てていたために、批判的な含みから独立して定着してしまったわけです。「内向の世代」と言われる小説家とか批評家は、皆さんもよくご存じの人たち、たとえば、古井由吉であるとか、後藤明生であるとか、黒井千次であるとか、あるいは評論家であれば川村二郎とか秋山駿とかですね。たいへん表面的な水準で整理してしまえば、彼らはもう、他者を告発したり批判したりするための論拠を持たないんです。社会の変革にストレートに参加していくというときの自分の立脚点を持たない。だから、基本的には、内側に視線が向かっていくわけです。それが「内向の世代」の批評家や作家たちの特徴であると、教科書的に言えば、そういうことになるわけです。  この「内向の世代」というのは、この七〇年代までに起きてしまった、ある理念の真空地帯というものにちょうど対応する形で出てきたのではないかと思うんです。もし、そうだとすると、この「内向の世代」というのは過渡的なものだということになります。実際、このことをはっきり示したのが、柄谷行人です。つまり、これは浅田彰もどこかで言っていたと思うんですけれども、「内向の世代」が持っている指向性というか方向性みたいなものを内側から破って、そのことによって逆に「内向の世代」というのは過渡的なものであったということを否応なく印象づけてしまう、それが柄谷行人という人だったと思うんです。柄谷行人も、当時は「内向の世代」という分類に入る。しかし、彼は「内向の世代」を自己破綻にまで導いてしまうわけです。柄谷行人が示したことは次のようなことです。「内向の世代」というと、外界には関心を抱かないけれども、しかし、内面的には非常に豊かである、といった印象をもちます。しかし、内面しかもたない「内向の世代」は、その内面においてすらも貧困であるということ、柄谷氏は、このことを示してしまったんです。 †マクベスの憂鬱[#「マクベスの憂鬱」はゴシック体]  たとえば、典型的なもので言えば、今読んでもおもしろいんですけれども、一九七三年に書かれた「マクベス論」ですね。典型的なところを少し論じておきます。マクベスの話は皆さんご存じだと思うんですが、マクベスが魔女による予言を授かる。予言が一種の殺人教唆になるわけですね。魔女からの予言を聞いているときのマクベスはまったくぼんやりとしているということに、柄谷行人は注目する。マクベスについての普通の理解というのは、マクベスが権力への非常に強い野心を抱いていて云々とか、そういう権力への野心と葛藤し、懊悩する人物といったものです。柄谷の理解は、こういうものとはまったく違う。マクベスはそういう明確な意志とか野心を持っているのではない。そもそもマクベスは魔女の予言を聞いているときに、心ここにあらずの状態でいる。つまり、柄谷は、マクベスがそこで担っているのは権力への野心とか権力への意志ではないとする。柄谷は、マクベスは、何か理由の知れない憂鬱を背負い込んだ人間なんだと、そういうふうに論ずるわけです。  では、何がマクベスにとってそんなに憂鬱だったのか。マクベスはやがてダンカン王を殺害してしまうわけです。その殺害場面を読み解きながら、柄谷さんは、こういうことがわかってくる、と論ずるわけです。つまりマクベスは、王様を殺しながら、自分自身を何か他人のように感じている、と言うんですね。彼は、何となく自分自身に対して自分自身が疎遠であるような感じを抱いている。要するに、マクベスという人は肝心のときに夢遊病状態になるという特徴があるんです。自分が一番肝心なときに、自分が意志していることが何であるかもっとも明確であるはずのときに、自分が自分でない気分になってしまう。こうしたことから、柄谷によれば、マクベスが示しているのは、個人の内部と外部というものは明快には分離できないんだ、そういうことは不可能なんだ、ということです。それから、このことの必然的な結果ですけれども、見かけの自己と本当の自己という分離は本当は不可能なんだということです。柄谷は、「マクベス」がこれらのことを証明したことになるというふうに、この戯曲を読むわけです。こうした読解は、「内向の世代」がその根拠にしていた(個人の精神の)内面性を内側から否定に導くものであったと、解釈することができるでしょう。  さらに柄谷さんは、「マクベス論」でこういうことを言っています。なぜマクベスがこういう人物なのかと、問い進めるんです。それは、マクベスが一切の意味を拒絶しているからだ、というのが、柄谷さんの考えです。どういうことか。当時、実存主義というのがはやっていますから、「人生は不条理だ」といった類の言い方があるわけですけれども、マクベスはもう「人生は不条理だ」というような意味のことすら言わない。なぜかと言えば、人生が不条理であるとか、世界が不条理だというふうに見えるのは、世界とか人生に意味があるはずだけれども、それが欠けているように見えるということです。つまり、不条理に見えるのは、人生や世界に意味があるはずだと思っているからです。不条理だという感覚は、世界が有意味であるというオプティミズムを前提にしている。しかし、人生が不条理だとか、世界が不条理だということすら言わないマクベスは、そういうことを言う者よりも、さらに徹底して、人生や世界の意味を拒絶していることになる。柄谷は、そういうふうに読み解くわけです。  こうした読みは、これが、戦後の一九七〇年までのプロセスを、あるいはもっと広く見れば近代を支えてきた理念とか理想というものが、説得力を欠くものとなり、あらかた消え尽くそうとしていた、そういう時期に対応して書かれたものだということを考えるとわかりやすいと思うんです。つまり、世界や人生の意味を支えている理念がもはやないんだ。そういうことを、「マクベス論」で柄谷さんは表現しているわけです。 †重みからの解放[#「重みからの解放」はゴシック体]  こうして、ある種の理念とか理想とか、あるいは世界そのものの意味とか、そういったものを支えている共同体のアイデンティティとか、個人の内面性の重みとか、そういうものから解放された思想が、七〇年代、特に七〇年代中盤以降を席巻することになるわけです。理念とか理想というものの重み、あるいはそういうものを支えている共同体とか個人のアンデンティティの深さとか重み、そういうものからの解放感が、それまでそういう重みの中で生きていた人にとっては、非常に大きいんです。こうした、解放の理論的な根拠になったような思想が、七〇年代の七〇年代らしさを代表する思想です。  代表的な論者をちょっと挙げておけば、これも教科書風ですが、三年前に亡くなられた廣松渉なんていう人はそういう人にあたるわけです。廣松さんはたいへんいろいろなことをやった人ですけれども、一番広く読まれているアイディアは、マルクスをひもときながら、疎外論と物象化論を対照させるというアイディアですね。つまり、初期のマルクスは疎外論で考えているけれども、本来の成熟したときのマルクスは物象化論で考えているというのが廣松さんの言っていることです。  疎外論というのは、内面に何か実体があってそれが外化されている、そういうアイディアです。ですから、何か内側にある個人の——場合によっては、個人でなくても、つまりアイデンティティを有する共同体でもよいのですが——内面の本質というものが自存していることを前提にしているわけです。つまり外化=疎外されるべき内的実体が存在していることを前提にしている。それはある種の内面のアイデンティティの持っている重みとか深さというものを前提にしないとつくれない理論なんです。それに対して物象化論はそうではなく、むしろ逆に考えるわけです。物象化論というのは、本来、関係であるものが、物のような自律的な実体として現れる、ということを説く理論です。人間の内面性というものも、社会的な関係が転倒して捉えられた、一種の錯視の産物と見なすわけです。人間とは、関係の総体であるという、マルクスの『フォイエルバッハ・テーゼ』の言葉が、物象化論のアイディアを要約したものとして、引用されたりしました。人間の内的なアイデンティティに対して、関係が先立っているわけだから、議論の前提に重みを持った内面というものがなくてもすむ。この点で、廣松さんの議論というのは、非常に解放感のある思想であったわけです。  同様に広く読まれた人としては、今もあの当時とは別の形で活躍していますけれども、文化人類学者の山口昌男がいます。山口さんの議論というのはこういうことです。共同体の文化の構造というのは、「中心と周縁」という、記号論的な二項対立が構成するダイナミズムによって、描くことができる。つまり、共同体の持っているアイデンティティは、常に周縁によって相対化され、そのことでかえって活性化するというわけです。トリックスターとか道化のような、「周辺」を代表する要素を、文化は必ずその内に組み込んでおり、それらは、何か生真面目な共同体の中心的な理念とか理想というものを相対化する。そしてまた理念や理想が硬化するのを防ぐのです。道化とかトリックスターのおかげで、共同体の生真面目な中心を相対化したり、そこから距離をおくことができるようになる、と山口さんは説いたわけです。  そうすると、廣松さんの場合は個人のアイデンティティから人々を解放したし、山口さんの場合は共同体の持っている価値とか規範の重みから人々を解放した。彼らは、こうした解放の効果を有する思想を七〇年代には展開していった。彼らの本は、七〇年代の後半から特に広く読まれるようになっていったというふうに、大体言ってもいいのではないかと思うんです。   [#小見出し]3 消費社会的シニシズム †思想のカタログ[#「思想のカタログ」はゴシック体]  その結果、出てくるのが、八〇年代の思想です。八〇年代の思想というのは、今の七〇年代の展開を考えれば、その必然の結果とも言うべきスタイルを特徴とする。そのスタイルを、こう言ってもいいと思います。「消費社会的シニシズム」と。この消費社会的シニシズムを代表しているというか、本人たちは代表しているつもりはないが社会学的にみれば代表しているのは、これから述べるような人たちだと思います。これから挙げる二人はともにこの消費社会的シニシズムというものをあえて擬態することで、それを内側から突き破ってやろうとしたんだと思いますが、結果的にはむしろ単純に消費社会的シニシズムを促進してしまった。  一人は、浅田彰さんです。浅田さんは、皆さんも今でも読むのではないかと思いますが、『構造と力』という本を八〇年代の序盤(一九八三年)に出すわけです。この『構造と力』という本は、ご覧になればわかるように、ある種の教科書というか、テキストというか、そういった体裁をもっています。本人も「これはチャート式参考書なんだ」というようなことを言ったりしていました。どういうことかというと、思想とか知、学というもの、それ自体を一種の消費社会的に消費されるような、記号的な差異として扱っているわけです。つまり、思想を消費社会的な消費の対象の一種として扱ってみせる。おそらく浅田氏としては、知をこういうふうに消費することで、こういう消費自体がばからしくなって、こうしたやり方をアイロニカルな形で終わらせる、というのが本来のねらいだったということになるのかもしれません。しかし、結果的にはかえってこういう思想や知の消費のやり方を積極的に模倣する人々をたくさん生み出してしまったんです。  当時浅田さんのように軽いノリで知に新風を吹き込んだ、若手学者は、「ニューアカ」と呼ばれました。ニューアカデミズムの略ですね。ニューアカと呼ばれた人自身は、まだいいのですが、悲惨なのは、ニューアカで学んだ人たちですね。つまり浅田さんが終わらせようとしたことそのものを、まともに学習し、そのままやってしまった人たち。おそらく浅田彰を当時大学に入りたてとか、高校ぐらいで読んでしまった人たちは「ニューアカみたいになりたいな」と思ってやったので、とても悲惨なことになっているんです。それは、今、年頃でいくと三十前後ぐらいの人が多いんです。とにかく、結果的に、まさに終息させようとしたものを、つまり消費社会的に知とか学問とか思想というものを消費するというスタイルを、かえって積極的に促進したことになったのが、『構造と力』という本になるわけです。 †凡庸への誘い[#「凡庸への誘い」はゴシック体]  それから、もう一人挙げるとすれば、典型的なのが、蓮實重彦ではないかと思うんです。その意味を考えるのにもっともわかりやすい本は、『凡庸な芸術家の肖像』(一九八八年)という本ですね。この中で、彼は本当に凡庸な芸術家について書いていて、これはマクシム・デュカンという人です。凡庸な芸術家ですから、もちろん、本来は、そんなに知られていない。この本の内容は、最初、『現代思想』で長いこと連載されていたんですが、僕の友人は、論文のタイトルを初めてみたとき、マクシム・デュカンというのをよく知らなくて、「マクシム・デュカンというのはマルセル・デュシャンのことかな、それをどこかの言葉で読むとマクシム・デュカンになるのかな」と思ったと言っていましたけれども(笑)、そうではなくてそういう名前の人がいるわけです。それはフローベールの同時代人でして、本当に凡庸な芸術家だったんです。しかし、マクシム・デュカンという人は、彼が生きていた現在では、つまりフランスの十九世紀中盤では、結構な有名人の一人だったんです。しかし、今日では、ほとんど顧みられない人です。日本では蓮實重彦のおかげで若干知られていますけれども、フランスの中でさえもそんなに知られてはいない。だから、彼は、フランスよりも日本で有名な、しかも凡庸なことで有名な芸術家ということになってしまっています。フローベールはもちろん誰でも知っていますけれども。  その中で、彼はマクシム・デュカンについて論じながら、フローベールのやったあるアイロニカルな試み、『紋切り型辞典』に言及する。『紋切り型辞典』というのは、要するに徹底的に紋切り型の言葉の定義集です。一見気のきいているような印象を与えるけれども、実は誰でも言ってしまいそうな言葉をいろいろ取り上げる。どういう感じかというと、たとえば今だったら、『現代思想』を二カ月に一回ぐらい読んでいる人だと、何かちょっとしたものを見つけると、思わず「それはラカンの対象aだね」と偉そうに言ってしまうとか、そんなことに似ています。そういう何かちょっと難しっぽくてちょっと深そうなことを言っている雰囲気はあるけれども、実はその種のサークルの中で誰でも思わず口に出してしまうこと。それが紋切り型ですね。そこには何らの本質的な発見はなく、同じサークルに属している誰もが言いそうなことをまさに言うことで、ローカルな共同性を確認しあっているのです。  フローベールは、『紋切り型辞典』というへんな書物を残している。『紋切り型辞典』というのは、言ってみれば、消費社会の差異の追求のパロディなんです。消費社会では、みんなが差異を求めている。求めているけれども、それは相対的な差異でしかないから、結果的にはある種の同一性の中に回収されていく。本当の驚きということはなくて、ちょっと驚かせている、むしろ本当は安心している。今で言えば、オタクのサークルの中で、オタクたちが、アニメならアニメといった特定の主題について、微妙な最小限界差異を争い合うようなものですね。そういう消費社会的な差異のゲームのパロディなんです。  こういう凡庸を描くことで、フローベールにしろ、蓮實さんにしろ、それを超えた、相対的な差異には解消されない、絶対的な差異の提起の仕方を逆説的に浮かび上がらせようとした。つまり、凡庸さを徹底して擬態することで、凡庸の凡庸性を浮き彫りにし、かえって、凡庸の枠には納まらない、絶対の差異を逆説的に示してしまおうとした。こうした、絶対の差異を提示する態度を、蓮實さんは愚鈍と言うんです。つまり、凡庸に対置されるのは天才ではなくて、愚鈍です。  しかし、この場合も、浅田さんの場合と同じ結果を生んだ。つまり愚鈍な人ではなくて、凡庸な人をたくさん生み出してしまった。蓮實さんの思考を縮小再生産的に再現したり、彼の文体を模倣する凡庸な人を大量に輩出してしまったんです。「愚鈍」の重要性を説く、中途半端に賢い凡庸な人がたくさん生まれたわけです。つまり、やはり、まさに止めさせようとしたそのことを、大量に生み出したのです。  消費社会的シニシズムというのは、それまでの思想を支えていた要となる実体を、相対的な差異を提示しあうゲームや戯れの中に、還元してしまうことです。浅田さんも、蓮實さんも、こういうものを終息させようとした。たとえば、蓮實さんは、凡庸(消費社会的シニシズム)に愚鈍を対置した。この場合、大切なのは、凡庸が天才によって否定されているわけではないということです。天才を置くということは、相対的な差異のたわむれに対して、何らかの実体を置くことであって、反動的です。相対的な差異のゲームというのは、差異を追求しているようで、本当は、差異をその内部で相対化しうる、実体の同一性をあてにしている状態です。だから、対置されるべきは、相対化できない差異、つまり愚鈍でなくてはならない、ということになるわけです。しかし、繰り返し言っておけば、蓮實さんの仕事の影響で出てきたものは、主として、凡庸な人たちだったわけです。 †デコンストラクション[#「デコンストラクション」はゴシック体]  ここで僕が消費社会的シニシズムの話をしたのは、ねらいがあって、この消費社会的なシニシズムの代表格というか、その親玉は一体何なのか。あるいはその消費社会的なシニシズムというものを思想的に最も高いところで評価する、その可能性の最もポジティヴな部分で代表させようとしたら、それは何になるのだろうか。それは、デリダの「脱構築」(デコンストラクシヨン)の思想だと思います。  ここから教科書風の話からもう少し本格的な話になります。ちょっと後ろの話と関係づけるために、デリダのハイデッガーについて論じた文章を取り上げてみたいと思うんです。どうしてデリダについてここで話すかというと、皆さんもよく知っているように、日本の現代思想というのは、西洋の思想と緊密に連動している。だから、そういう意味で日本の思想とか西洋の思想とかと分けて論ずることは、今やあまり意味がないですね。つまり、日本の思想もある意味で西洋の思想なんです。  ところで、デリダについて話す前に、ちょっとこのことを思い出してほしいんです。日本の戦後と戦前は大体六十年ぐらいの時間幅を隔てて、パラレルなプロセスをたどっているというふうに、僕は思っているんです。だから、なぜ「近代の超克」という昭和初期の思想とか京都学派の話をしたかというと、一九三〇年代から六十年幅をとれば一九九〇年代になるからです。つまり、一九三〇年代を見ることによって現代を見ることができる。そういう構造がどこかにあるんです。あるいは、昭和初期の日本の思想というのは、今風に言えば、ポストモダニズムなんです。  その場合、今というのは昭和初期ですから、日本の戦前のファシズム期にあたるわけですが、ファシズム化というのは別に日本だけで単独に起きたわけではないんです。同時期に、イタリアとドイツだけではなくヨーロッパ中にファシズムが出てきているんです。つまり、ヨーロッパ全域でファシズム化がある。そういう時代的な現象と共鳴しつつ日本のファシズムが出ている。ここから示唆されることは、戦前と戦後の平行性ということは、実は日本だけではなくて、非常に緩やかな意味でならば——六〇年という時間幅にあまりこだわらず出来事の形式的な配置にだけ注目するならば——ある程度は西欧社会に関しても当てはまるかもしれないということです。  この対応関係は、思想の水準では、現代(フランス)の思想が、ハイデッガーの濃厚な影の中で展開したという事実のうちに、とりわけあらわれている。デリダもまた、ハイデッガーの影の中で、その思想に磨きをかけた。だからデリダのハイデッガー論を取り上げたいわけです。ですから、こういうふうにしてみたいんです。つまり、デリダが映し出すハイデッガーを鏡にして、そこに、逆にデリダ的な思想のたどりうる運命を映し出すこと。これがもくろみです。 †啓蒙された虚偽意識[#「啓蒙された虚偽意識」はゴシック体]  しかし、その前に話しておくことがあります。八〇年代の論調を、シニシズムという語で表現してきたのには、意図があります。ドイツの若手の——といっても全共闘世代ぐらいの——思想家で、ペーター・スローターダイクという人がいて、『シニカル理性批判』という大きな本を書いています。どういうことを書いてあるかというと、主としてドイツのワイマール期について論じているんですね。ワイマール期というのは、ドイツの戦間期のことを言います。それは、表面的には非常に——当時の他のどの国よりも徹底的に——民主的な政治体制が確立していた時期ですが、しかし同時にナチズムが出てくる温床となった社会です。スローターダイクは、ワイマール期の精神、ワイマールの思潮を、シニシズムあるいはシニカル理性ということで特徴づけられると、言っているんです。そして、そうしたシニシズムの中からこそ、ヒットラーも出てきたんだと、示唆しているんです。  そのシニシズムとはどういうことか、シニカル理性とはどういうことかということをちょっと言っておきたいと思うんです。こういうことなんです。スローターダイクは四つの虚偽意識ということを言っています。四つというのは、嘘と迷妄とイデオロギーとシニシズムです。嘘と迷妄は単純なので、シニシズムの特徴は、古典的なイデオロギーと対照させてみると、よくわかります。  イデオロギーは虚偽ですが、真実であると信じられている虚偽です。ただ、それが真実であると受け取られてしまう原因がある。つまり、イデオロギーの担い手の社会構造上の位置、階級的な位置に規定されて、それが真実に見えてしまうのです。イデオロギーを批判するには、その虚偽性を暴露して、それが当事者には真実に見えてしまう社会的な原因まで示してやればよい。つまり、古典的なイデオロギーまでの三つの虚偽意識に対しては、啓蒙の戦略にのっとった批判が有効です。  それに対して、シニシズムは、いわば一段前に進んだイデオロギーです。メタ的な視点にたったイデオロギーだと言ってもよい。シニシズムというのは、自己自身の虚偽性を自覚した虚偽意識なんです。啓蒙された虚偽意識だと言ってもよい。それは、「そんなこと嘘だとわかっているけれども、わざとそうしているんだよ」という態度をとるのです。こういう態度には、啓蒙の戦略にのっとった批判は効かない。啓蒙してやっても、はじめから、虚偽だとわかっているので意味がないのです。別に真実だと思って信じているわけではない。嘘だとわかっているけれども、そうしているのです。これがスローターダイクがいうところのシニシズムです。  こういうのは一体どういうことかというと、何かちょっと変だなと思ったりするかもしれないけれども、考えてみれば、僕らの世界の中にこのシニシズムというのは蔓延しています。典型的には、たとえば、広告、特に商品の広告がそうですね。商品の広告、ヒットする広告は、大抵ふざけているんです。つまり、「こんなの嘘だ」と書いてあるわけです。しかし、広告は一定の効果を上げるわけです。つまり、嘘であると送り手はもとより受け手側だってわかっているのに、それがまるで真であったかのような行動が喚起されるんです。  消費社会というのは、考えてみると、広告の時代ですね。商品より広告のほうが偉いというのが八〇年代です。バブルが弾けてからそうではなくなったけれども、バブル時代はそういう時代だったんです。広告とは、言ってみれば、「こんなの嘘だ」と言いながらやっている説得のようなものです。こういうのがシニカル理性というものです。  考えてみると、ワイマール期がそういう精神におかされていたというのは、とても納得できるところがあります。たとえば、皆さんもよく知っている、ヒットラーが口述筆記させた『わが闘争』という有名なテキストがありますね。この『わが闘争』を見ると、どうやって大衆をだますかということがみんな書いてあるわけです。ああいうのがみんな読まれていたわけです。だましのテクニックを初めからみんなに公表しているんです。けれども効果があるんですね、ヒットラーのやり方というのは。つまり、大衆は単純にだまされていたとは言えない。だまされているという言い方は正確ではないんです。嘘だと本当はわかっているにもかかわらず、とらえられてしまう。それがシニカルであるということなんです。  そういう『シニカル理性批判』という本を引いてみると、一九三〇年代のドイツの精神的な状況と、現在のポストモダニズムとの状況が非常に平行性があるというのは容易に想像がつくことですね。実際、スローターダイクもドイツの七〇年代以降が、ワイマール期と類似した精神状況にあったのではないかという問題意識からこの本を書いているのです。 †ハイデッガーの「精神」[#「ハイデッガーの「精神」」はゴシック体]  さて、その上で、今言ったようなことを、風俗の水準ではなくて、思想の可能性の水準で取り上げた場合にどういうことが起きるかということを、デリダによるハイデッガー批判を利用しながら考えてみようというのが、ここでの本来のねらいです。  デリダはいたるところでハイデッガーについて書いています。その中でも比較的よく知られているものとして、『精神について』という論文があります。これを素材にして話をしたいと思うんです。これはデリダのハイデッガー論なんですが、もしハイデッガーというものを若干でも勉強していたとすれば、これは極めて意外な、本当に意表を衝いたハイデッガー論だと感じるはずです。この論文は、ハイデッガーのテクストの中で、「精神」、ドイツ語で言えば「Geist」という語を、あるいはこの語の形容詞形を、年代順に追いかけているんです。『存在と時間』が書かれた一九二七年から戦後間もない頃までの時期を追いかけて、この Geist という語がどういうふうになっていったかを取り上げる。  これがとても意外だったのはどうしてかというと、ハイデッガーにとって、「精神」という語は、まったく中核的な語ではないからです。「現存在」とか「気遣い」のような中心的な概念ではないのです。そもそも、『存在と時間』では、この語をあまり使うべきではないと宣言し、意図的に回避してさえいるのです。  それならば、なぜこんな語をとりあげる意味があるのか。ハイデッガーという人は、ナチズムにコミットした可能性が高い。どの程度積極的な加担であったかは、意見が分かれるところなのですが、仮に消極的であれ、ある時期確実にコミットした人です。二十世紀のヨーロッパで最も偉大だと言われている哲学者がナチスにコミットしたということで、非常にスキャンダラスなわけです。ハイデッガーのナチズムへの加担をもっとも明白に伝えているのは、彼がナチ政権下で大学の学長になって行った「ドイツ大学の自己主張」という有名な演説(一九三三年)です。どうみてもナチスを応援しているとしか思えないことを言っている。そのときに、ナチス支持を表明する中で使われている中核的な言葉が、Geist です。ですから、このガイストという言葉を追いかけていくというのは、ナチスとハイデッガーの関係を考える上で非常に参考になるわけです。  そんなに長くは説明していられないので、ごく大ざっぱにデリダの議論を見ていきます。デリダは、ハイデッガーの一九二七年から五三年までの期間を三段階に分けているんです。それは、最初の段階、つまり『存在と時間』の段階には意図的に回避されていた「精神」が、徐々に重要性を帯びたものとして登場し、前面にせり出してくる過程です。「学長就任演説」は第二段階にあたります。 †人間とヨーロッパとドイツ[#「人間とヨーロッパとドイツ」はゴシック体]  第二段階は、回避されていた「精神」が表舞台に出てきて、非常に重要な役割を果たす時期にあたります。学長就任演説では、かつて回避すべきだとした「精神」という語に「存在の本質に向かっての決意」という立派な定義まで与えています。この時期の重要なテクストとしては、一九三五年に出した『形而上学入門』があります。  『形而上学入門』では、精神という言葉は、一見矛盾した二つの場面で使われているんです。一つは、簡単に言えば、これは考えてみれば凡庸なんですけれども、精神という言葉は、動物と人間というものを区別する基準を指示するものとして使われている。つまり、ハイデッガーによれば、動物というのはいわば世界を持たない。世界というのはおよそ精神的なものである。それは世界−内−存在としての人間にしかない。そういう言い方をする。精神的なものとしての世界を持つのは人間だけだとするわけです。要するに、「精神」は、人間を定義する条件です。  ところが、これと矛盾したように見える用法があるんです。デリダは、この用法を二つに分けて書いていますけれども、両者は関係が深いので一セットにしたいんです。ハイデッガーは、精神の没落ということとヨーロッパの没落ということを重ね合わせています。また、精神性を特権的に表現できるのはドイツ語だ——あるいはドイツ語とギリシャ語だ——と論じている。要するに、精神が、ヨーロッパやドイツを特徴づけ、またそれらの地域に固有に所属するものであるかのように論じているのです。  精神は、一方では、人間という類を普遍的に定義する条件です。ところが、他方では、精神が、ヨーロッパあるいは中央ヨーロッパの特殊な文化や特殊な言語に特に固有に所属する性質とも見なされているのです。精神を媒介項にして、人間という普遍性とヨーロッパやドイツという文化のローカルな特殊性という、異なる二水準が結ばれてしまっているんです。 †精神の炎[#「精神の炎」はゴシック体]  デリダがハイデッガーの第三段階として扱っているのは、戦後に書かれたテクスト、むしろ講義ですね。戦後になるとハイデッガーは、詩人の言葉についていろいろ分析したりするようになるわけです。ここで扱われているのは二つです。一つは、ヘルダーリンについて論じた講義、これは一九四二年です。もう一つは、それよりだいぶん後、五三年に出されているわけですが、トラークルという詩人に関する講義です。この二つの中で「精神」という言葉が縦横無尽に使われるようになるわけです。  ヘルダーリンは、精神についてこういうふうに書いているそうなんです。「精神は、始まりにおいては自らのもとにない」。この表現のイメージの原型になっているのは、簡単に言うと、植民地の体験です。「精神というのは祖国の犠牲となる、精神は植民地を愛し、勇敢なる忘却を愛する」という表現もしているわけです。精神というものを植民地化と結びつけて理解しているんです。つまり、精神というのは、いわば祖国の外に出ていく、そして祖国に帰還する、そういう運動性なんです。精神というのは祖国の外に出ていくものであり、植民地を愛する、そしてそのことによって故郷であるところの祖国に戻ってくるわけです。外に流浪し、そして戻ってくる、そういうプロセスとの関係で精神というものを、ヘルダーリンは表している。そして、これをハイデッガーは重視しているということです。  植民地化というのは資本の帝国主義的な運動の結果です。そうだとすると、「精神」の今述べたような運動性は、〈資本〉のメカニズムと平行していることが、ここで暗に示されているわけです。  ここで一番重視したいのは、最後に到達段階のトラークルについて書いた文章の中でどう「精神」が論じられているかです。ここで、精神は、ある具体的なイメージを持って語られるんです。そのイメージとは何かというと、炎なんです。精神のイメージは炎である。炎というのはつかみどころのない気体みたいなものですから、「精神」に近い語を使うと、「霊気」とか、「気」といったことになるでしょう。もちろんハイデッガーは、トラークルの言葉から引いてくるわけですけれども、その部分を非常に重視するんです。こうして、炎や気体としての精神というイメージに、ハイデッガーは最後に到達するわけです。  精神というのは炎であるから、すべてを焼き尽くしてしまう。つまり、それは、自己にとどまることができず、自己が自己であることを否定し尽くしてしまう。だから、ハイデッガーは、精神は「自己−外−存在 das Au§er-sich」である、と論じます。自己を焼き尽くしてしまう精神は、自己が自己自身に対して外在している、というわけです。  精神という炎は、最後に「白い灰」だけを残す。「白い灰」というのは、「悪」のイメージです。精神は、「善」ではなく、「悪」によって定義されているわけです。 †自己−外−存在[#「自己−外−存在」はゴシック体]  さて、デリダは、こんなふうにハイデッガーの「精神」の跡を追いかけるわけです。このときのデリダの意図はどこにあるのか。デリダの基本的なねらいは、繊細な言い方を今はしませんが、きわめて大まかに言えば、こうです。ハイデッガーは、最初は「Geist」という語を慎重に回避したのだが、それは、やがて再び彼のテクストに忍び込んでくる。こうして回帰してきた「精神」は、形而上学的な人間主義、人間中心主義、ゲルマン中心主義に冒されており、ハイデッガーの思索が、そうした形而上学から自由ではなかった。このことをデリダは示そうとしているわけです。  が、こんなふうに我々としては片づけてしまうわけにはいかない。こういうふうに総括してしまったら重要な繊細な部分がちょっと見えないと思うんです。ハイデッガーの到達点は、精神は、自己−外−存在だということでした。普通は、精神は、同一性をになう実体として考えられる。しかし、ハイデッガーではそうではない。自己−外−存在としての精神は、自己自身に対してずれており、外在している。つまり、精神は、自己が自己であるという同一性をもたない、純粋な差異なのです。  だから、ハイデッガーの精神は、むしろデリダ的です。形而上学的な同一性によってではなくて、そうした同一性から逃れる差異(あるいはこう言ってよければ「差延」)によってこそ、定義されているからです。純粋な差異性ということは、実践的には、絶対的な悪ということです。存在の言葉で言えば、同一性に対して差異性を、実践の言葉で言えば、善に対して悪を、優越させる。こう考えると、ハイデッガーの「精神」は、デリダ的な脱構築の過程そのものである、とすら言うことができます。そうだとすれば、デリダによって批判的に読解されたハイデッガーに、むしろデリダ的な「精神」の行方に対する暗示を読むことができるのではないか。こんなふうに考えてみたいわけです。もちろん、どこか究極的なところで二つの道を分かつものがあるかもしれない、という留保をつけつつ、こう考えてみたいのです。   [#小見出し]4 ガスについて †アウシュビッツのガス[#「アウシュビッツのガス」はゴシック体]  デリダはこういうハイデッガーの精神という概念を追いかけながら、それをある場所に追い詰めていったんです。どこに追い詰めたのか。ハイデッガーの「精神」は、炎やガスだという。こう言うとき、デリダの頭の中には、非常に具体的で即物的なイメージがあるわけです。それは、アウシュビッツで使用されたガスです。たとえば、『精神について』の中には、こういう表現があります。「Geist、即ちガス気体は、腐敗していく死者たちの上に再現前する」。ガスとしての精神を、アウシュビッツのホロコーストで使われた毒ガスのイメージとわざと重ねているんです。  僕は、こういうやり方を単に悪意のあるレトリックの問題だというふうに片づけてしまうわけにはいかないと思うんです。ハイデッガーの「Geist」という言葉が炎とかガスという意味を持ったとき、単なるだじゃれとして「それはアウシュビッツの毒ガスを思い起こすぞ」と言っているのではなくて、もっと本質的な、哲学的な意味があると考えたほうがいいと思うんです。なぜかというと、我々はそういうふうに言う資格があるような立場に、今いると思うんです。というのは、僕らは既にガスというものに対するある非常にユニークなこだわりを、ガスが形而上学的な意味を帯びて立ち現れるという現象を、既に見てきたからです。この場合のガスはサリンです。 †サリン[#「サリン」はゴシック体]  「僕らは既に見てきた」なんて言いましたけれども、僕はオウムについて書いた本の中でその問題についてかなり丁寧に書いたんです。それまでほとんどの人たちは、オウムがサリンを使ったことについて、たまたま安くて手に入って、彼らが作ることができた、単なるツールとしてしか考えてこなかった。でも、僕は、いくつかの論拠から、サリンというものに、オウムの宗教性の根幹が具現している、と考えたんです。  つまり、こういう筋をとりたいと思っているんです。今、また日本に話を戻したいんですが、そのための媒介として、サリンというものを持ってきているわけです。だから、「Geist とは実はガスであった。これはアウシュビッツの毒ガスなんだ」というふうに言うとすれば、我々はすぐにこれでオウムのサリンというものを思い出すではないか。結論を先に言っておけば、この二つの間に等価関係を見ることができるのではないか。そういうことを言っておきたいんですが、そのためにはオウムにとってサリンとは何であったかということを、今度は考える。そのことからまたこっちに戻ってくるというプロセスを経なくてはいけないんです。  皆さんも九五年のときのことを思い出していただければいいと思いますけれども、あの頃、オウムが地下鉄にサリンをばら撒いたということがあって、僕らのオウムに対する恐怖というものはサリンへの恐怖に集約されていたわけです。しかし、よく考えてみると、サリンを怖がっていたのは、我々だけではなかったんです。むしろオウム教団こそが、サリンを最も恐れていたわけです。たとえば、教団の説明によれば、彼らは、サリンとかVX等の毒ガスによって継続的に攻撃を受けていた。何者かが教団の施設の中に忍び込んで、内側からサリンをばら撒いているに違いないとか、そういうふうに教団側は、説明するわけです。これは、あながち単なる方便のための嘘になってはいなくて、本当に信じているようなところもあるんです。この信じ方は、先ほど言ったシニカルな信じ方みたいなところがあるので、微妙なところもありますけれども、とにかくある種の真実として受け取られているわけです。ご存じのように、オウムの教団施設はどこでも大きな空気清浄器を持っているんですね。それは、毒ガスから身を守るためです。  サリンとは何か。サリンの恐怖というのは、たとえば冷戦のもとで外から飛んでくる核兵器の恐怖というものとは非常に質が違うということに気をつけなければいけないと思うんです。つまり、核兵器とはどういうものかというと、外からやって来るんです。その外というのはすぐに特定できるわけです。外部にアイデンティファイできるような外から飛んでくるんです。しかし、サリンは、どこからともすぐには特定できないところから、やってくる。しかも、その発生ポイントはすぐ近くにある。そして気がついたときには、すでに身体の中に侵入してしまっており、ほどなくしてその人は死に至る。外側にすぐに特定できる敵と、すぐ近くにありながら、特定できず、いつのまにかに内部に入ってしまう敵。これが核兵器とサリンの違いです。サリンというのは、敵となる他者が非常に近いということ、自己の身体のうちにいつのまにかに充満してしまうほどに近いということ、こういうことを象徴しているわけです。  もう一つ、僕らが注目しなければいけないのは、オウムがサリンという武器に非合理的なまでに執着している、という事実です。つまり、サリンというのは武器としてそんなに有効なものなのかということを考えた場合に、結構危険でしょう。こんなものをそんなに使う意味があるだろうかということを考えると、サリンへの執着というのは、何か単なる武器としての有効性とは違うところにもあるかもしれないというように見えてくる。だから、オウムは、サリンを恐れながら、他方では愛している。サリンというのは、オウムにとっては、敵であると同時に味方なんです。つまり、自分たちの有効な武器であると同時に、自分たちの敵でもある。そういう両義性があるわけです。  そういうふうに考えると、僕らがすぐに思いつくのは、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』というアニメーションです。見た方は多いと思いますけれども、『ナウシカ』では、風の谷をはじめとする共同体の周辺部に毒ガスが充満しているんです。これは、オウムとよく似た世界観です。けれども、その「風の谷」という言葉からわかるように、風というのは非常にポジティヴなイメージで表現されている。でも、風と毒ガスというのはほとんど同じものでしょう。つまり、同じ「気体《ガス》」が、風と毒ガスへと分解している。それを一身に象徴しているのが、一つは主人公の少女ナウシカであり、もう一つは、これは驚くべきことですが、「オーム(王蟲)」という名前の虫なんです。このオームは、善玉であるとともに悪玉です。人間を襲うけれども、実は森を守る者でもある。このアニメでは、森というのは実は毒ガスをきれいにする作用をもっており、巨大な「空気清浄器」なんです。  さて、こういうふうに考えると、サリンというものにオウムの宗教性が深く結びついていたと考えることができるのではないか、という直観がだんだん信じうるものとなってくるでしょう。それでは、どんな形で、彼らの宗教性とサリンがつながっていたのか。サリンは、オウムの人たちが獲得しようと指向していた身体ということと深く関係しているのではないか、というのが僕の仮説なんです。 †離脱する身体[#「離脱する身体」はゴシック体]  それをちょっと説明します。今僕は『ナウシカ』とオウムのあるパラレルな関係を問題にしましたけれども、『ナウシカ』だけではなくて、宮崎アニメの多くの作品に共通して見て取ることができるのは、空中を浮くというモチーフの頻発です。つまり風に乗って飛び交うということに対する非常に強い憧れが、宮崎アニメにはあります。これまたオウムとよく似ている。皆さんもよく覚えているように、オウムの超能力のベースは、空中浮揚ですね。つまり浮くことに対する執着、浮くことに対する強い欲望、そういうものがオウムの超能力への欲望のベースにあるんです。  浮くとは何か。それが克服しようとしているのは、身体がここにあるという事実です。身体というのは物質性を備えている。だから、それは必ず世界のどこか特定の地点に、こことか今というところに縛られているわけです。皆さんはそこにいる、僕はここにいる。身体がここにあるという、身体にとっては宿命的なリアリティを、克服したい。それが空中浮揚ということに憧れるものの原初的な欲望です。こうした欲望を、最も初歩的な水準でかなえてやれば、空中浮揚になる。もう少しレベルを上げれば体外離脱になります。自分がここにいながらあそこに行ってしまう、ということが体外離脱ですから。しかし、体外離脱なんてまだ現実世界を動くだけです。身体の可動範囲を、すべての世界、輪廻の世界のすべて、要するに六道の全体にまで拡張すれば、そういう身体は、「変化身《へんげしん》」と呼ばれます。変化身は、「ここ」にいながら、可能世界のどこにでもいることができる。空中浮揚、体外離脱、変化身というのは、オウムの次第に高次化していく超能力の系列です。  思い出してください。ハイデッガーの精神は、自己−外−存在でした。自己−外−存在とは、「ここ」にありつつ、「外」にあるものです。それは、オウムが希求した身体のあり方とよく似ています。  では、オウムは、「ここ」性への拘束から逃れた身体というものをどうやって獲得しようとしたのか。そのために修行があったのです。身体がここにいるのは、身体が個体(個人)としてのまとまりをもっており、ここに鎮座しているからですね。ですから、身体がここに縛られているというリアリティを克服するためには、身体の生きられた実感の上で、その個体としてのまとまりを解除し、それを細かく微分してしまう必要があるんです。身体をどんどん微分していくと、やがて、身体は、自分自身を、流体とか気体のようなものとして、あるいは、物質性をもたないエネルギーの波動のようなものとして、実感するところまでくるはずです。修行というのは、こういう実感を得られる水準まで、身体を苛め抜くことです。最後には、身体というのは、鈍重な普通の物質ではなくて、空気の中に飛び交う気体のようなものとして実感されるまでに至る。修行を積んでいくと、実際、それに近い実感を得ることもあるんだと思うんです。こういうエネルギーの波動のような身体のことを、オウムは、ヨーガの言葉を使ってクンダリニーというふうに呼んだわけです。  オウムが指向した身体は、要するに、気体としての身体です。ここまでくると、ハイデッガーの精神とオウムの身体は、非常に近いものではないか、という予想がますます信憑しうるものに感じられてきます。  修行によって、身体は、個体としてのまとまり、自我としての統一性の感覚を、完全に失うでしょう。それが、解脱ということです。解脱しているということは、自己−外−存在であるということと同じことです。それは、ここにありつつ、そこ(外)にある、という状態です。  「ここにいつつ、そこにいる」ってどういうことか。普通の自己意識からすれば、ここにいるということこそ、自分が自分であること、 私が私であることの、終極の根拠です。私とあなたは違う。私《だけ》がここにいて、あなたは彼方=あなたにいる。ところが、「ここにいつつ、そこにいる」ということは、ここにいながら彼方=あなたにいる、つまり自分でありつつ他者であるということです。つまり、オウム的な修行を積めば理念上どうなるかというと、身体は自己でありかつ他者である、自己でありながら他者である、という実感を持つようになる。それは、自己が他者の身体に直接に参入し、あるいは他者が自己の身体に直接に没入し、自己と他者とが、直接に共振《シンクロ》している状態だと言ってよい。こうした、自己の身体と他者の身体の相互内在の感覚が、オウムが希求していたことの先端にあるわけです。  そういう自他関係を、僕はオウムについて書いた本の中で「コミュニケーションの極限的な直接性」という語で表現したわけです。それは、どんな媒体も必要なく他者に接続するコミュニケーションです。言語も必要ない。つまり、テレパシーです。現にオウムの人たちが目指していたのはそういうコミュニケーションです。最も高級とされていた超能力は、だいたいテレパシーの一種です。自分でありつつ他者である、あるいは他者でありながら自己である、というときの、その他者とは誰か。それは、言うまでもなく、とりわけ教祖麻原彰晃です。つまり、麻原が自分の身体に直接内在してくるわけです。そういう関係のあり方を技法化したのが、「シャクティパット」です。またシャクティパットの代理物として体系化された一連の技法が、オウムのいう「イニシエーション」だったわけです。  こうした考察を経て、オウムのあのサリンへの不合理なまでの拘泥を振り返ってみたいんです。僕は、サリンと、オウムの気体としての身体《クンダリニー》は実は同じものだったんじゃないか、と思っているのです。同じものがポジティヴにも、ネガティヴにも見える。ポジティヴには、クンダリニーとして、ネガティヴには、サリンとして見えてくる。ところで、オウムの身体と、ハイデッガーの精神の、類比的な関係というものを、示唆してきました。もしオウムの身体がサリンでもあるならば、ハイデッガーの精神は、アウシュビッツの毒ガスでもあるのではないか。こう考えれば、デリダの隠喩には、悪意のある戯れとばかりは言っていられない、理論的な意味があるかもしれない。そういうふうに考えてみたら、何か僕らに教えるものがあるのではないかと思うんです。 †真我=形而上学の回帰[#「真我=形而上学の回帰」はゴシック体]  オウムは、消費社会的シニシズムの徹底した形態であった、ということをまず言っておきたい。  オウムは、身体の個体としてのアイデンティティを解除し、それを気体化していく、と述べた。それが、解脱ということでした。ハイデッガー風に言えば、自己−外−存在になるということてす。ところで、個体のアイデンティティは何によって保証されているのか。それは、個体(個人)の固有の利害関心、固有の理想や理念でしょう。だから、自己のアイデンティティを離脱するためには、自己が意志したり、欲望したりする、利害関心や理念、理想、価値といったものを相対化し、そういったものへの執着を脱しなくてはならない。  このことこそシニシズムというものです。一九八〇年代に日本を席巻した、あるいは日本だけでなくてポストモダニズムを席巻したシニシズムというのは、いわばどんな理念であれ、どんな価値であれ、それが差異のカタログの中で相対化しうる、という態度をとることです。オウムの修行は、だから、こうしたシニシズムを極端にまで推し進めたものだ、と考えてよいと思うのです。ついでに指摘しておけば、利害関心や理念の相対化というのは、それが、「他でもありうるもの」と見なしうる視野を獲得することですから、自らが生きる経験可能領域を普遍化するということでもあります。  相対化は、いわば自己を他者化することによって、自己の自己たるゆえんとなる自己の意志を他者に委ねてしまうことによって、果たされるわけです。その自己を委ねる他者とは何か。オウムの場合、それが、具体的には麻原であり、理論的に言えば真我《アートマン》と言われるものなんです。オウムの悲劇、オウムの挫折は、まさにこの点にあったんです。  もう少し具体的に説明します。自己を解脱するにはどうしたらよいか。そのためには、自己の意志を棄てなくてはならない。どうやってか。他者の意志だけで、動けばよいのです。純粋に他者の意志で動けばよいのです。それが、師《グル》への「帰依」ということです。そうすれば、自己が自己であることの根拠となる自己のアイデンティティから離脱できるわけです。しかし、このとき、他者の方が実体化され、絶対化されているんです。そうして実体化された他者が、真我です。それは、麻原という他者のうちに現実化している自我です。解脱するためには、他者に帰依しなくてはならない。自己から離脱するためにこそ、他者が同一的な実体として存在していなくてはならない。だから、自己において解除された同一性《アイデンテイテイ》が、いわば他者の方に蓄積されていくわけです。だから、同一性からの解放は完全には果たされない。それどころか、自己の同一性からの解放のためにこそ、もう一つの同一性の執着と絶対化が必要になる。自我が解脱するためには、本物のより大きな自我、つまり真我が必要になる。デリダ風に言うならば、ここで、形而上学というものが回帰してきているわけです。ここにオウムの失敗の原因がある。  考えてみると、この絶対的な帰依というところに、ペーター・スローターダイクの言う、シニシズムの純粋形態があるんです。シニシズムというのは、啓蒙された虚偽意識でした。それは、こう言います。「おれはそんなこと信じていないよ。信じていないけれども、そうするんだ」と。なぜ、信じていないのにそうするのか。なぜ、嘘だとわかっているのにそうするのか。それは、信じている他者が存在しているからです。もう少し厳密に言い換えると、信じている他者を想定しているからです。こういうことが純粋状態で現れるのは、いかにも資本主義的な場、たとえば株式市場です。自分では、こんな株はくだらないと思っていても、それを欲する他者がいるとすれば、その株を——まるで自分自身が欲していたかのように——買うことに意味があるわけです。そういう株は値上がりするからです。シニシズムは、このように、他者の意志にそった行動をとるのです。だから、意識においては啓蒙されているのに、行動においては啓蒙されていないかのような選択を行うわけです。  真にむずかしいのは、自己への執着から離脱することではありません。他者への執着のほうがもっと逃れがたいのです。他者の呪縛は、自己のアイデンティティへの執着よりももっと強いわけです。 †〈資本〉という精神[#「〈資本〉という精神」はゴシック体]  それから、今度はハイデッガーの「精神」のほうから事態をもう一回眺め直してみたいと思うんです。先ほど、ハイデッガーの精神が、植民地のイメージとつながっている、という話をしました。要するに、「精神」のあり方が、〈資本〉の世界化の運動によって、隠喩的に表現されているんです。  前回(前章)、〈資本〉というのは、経験可能領域を普遍化しようとするダイナミズムだ、という話をしました。そして、特に京都学派の哲学との関係で、普遍化の逆説のメカニズムについて説明いたしました。普遍化がある極限にまで進むと、極端な普遍性と極端な特殊性とが同じことになってしまうという短絡のメカニズムです。これと同じことが、ハイデッガーの哲学でも起きているのかもしれない。先ほど、デリダにそって、ハイデッガーの「精神」が、人間という類的な普遍性とヨーロッパやゲルマンの文化的特殊性の双方と等値されている、ということを指摘しました。ここに見られるのは、京都学派をおそったのと類似の、普遍性と特殊性の短絡です。  ハイデッガーの精神というものが持っている形而上学的な構造は、〈資本〉に規定されて出てくるものであるかもしれない。それをさらに翻って考えれば、ハイデッガーがそうであるならば、同じことはオウムに関しても言えるかもしれない、ということです。〈資本〉の持っている運動との関係で、八〇年代的な思想の限界とか困難というものを見ることができるかもしれない。そういう方向の考えが、ここでは示唆されるわけです。   [#小見出し]5 自由の条件の探求に向けて †超越性の否定[#「超越性の否定」はゴシック体]  ハイデッガーの「精神」において、極端な普遍性が特殊性と短絡されてしまう。それは、前回(前章)説明したように、真に普遍的な経験可能領域を代表しうる超越性が、超越性の否定を具現する超越性になるという転倒のメカニズムと相関しています。  麻原への帰依というのは、徹底したシニシズムを前提にしています。このことを理解するには、次のことを思い出すとよい。オウム事件のときにマスコミはこぞって麻原彰晃は俗物だという宣伝をしましたね。そういうふうにして麻原を崇め奉っている人の目を覚まさせようとしていたんです。しかし、ちょっと考えてほしい。どうして麻原が俗物だとわかったのか。麻原は、事件が生じて以降一度もマスコミの前に出ることなく逮捕されてしまった。麻原が俗物であるということを知ったのは、全部信者から聞いたからです。信者から聞いて、俗物だと言っているわけです。すると、逆に言うと、信者は麻原が俗物だとわかっていても信じていたということですね。それは、消費社会シニシズムのグロテスクなまでの徹底です。  言い換えれば、麻原は俗物だけど超越的なんです。普通に考えると、超越的なものと俗物というのは相反するんです。けれど、麻原は違う。俗物であるということが超越的であることの根拠になるわけです。要するに、麻原は、超越性を否定していることにおいて、超越的なんです。麻原は、「最終解脱者」だと言われた。それは、麻原が、世俗の人間であるがままに、つまり内在的で非超越的な存在者なままに、すでに神になっている、解脱してしまっている、ということです。そして、これは、「クラゲの研究者」が天皇である、という構造と同じです。  超越性とその否定が合致しているということは、繰り返せば、極端な普遍性が特殊性に短絡されるという連関の変奏です。だから、オウムにおいても、またハイデッガーにおいても、古典的な意味での超越性は否定されてしまっている。このことを念頭においた上で、最後の話を聞いてください。最後に、僕は「自由」はいかにして可能か、という問題提起をしてみたいんです。 †自由の優越=困難[#「自由の優越=困難」はゴシック体]  なぜ、最後に、「自由」ということを論ずるのか。それは、二十世紀が終わろうとしている今日、自由の条件を問うこと、自由な社会の条件を問うことが、最も重要な思想的な課題となった、と思うからです。  二十世紀は、とりわけその後半は、冷戦の時代でした。冷戦というのは、仮想的なままに終わった第三次世界大戦です。この大戦に関して重要なことは、これは、最後まで基本的には仮想的なままだったということ、つまり大規模な武力衝突を伴わずに終わってしまったということです。そうしますと、西側陣営の勝因は、軍事力にはなかったということです。それは、どこにあったのか。見田宗介は、『現代社会の理論』の中で、結局、それは、少なくとも理念の上では自由を第一義に掲げたシステムが、そうではないシステムよりも相対的に魅力的であった、ということだ、と総括しています。逆に言えば、社会主義の失敗は、自由よりも強い理念——社会主義体制の場合にはそれは「平等」の理念ですが——をもとうとしたシステムが、どんなに悲惨なことになるか、ということを示してしまったわけです。  だから、二十世紀という時代の思想的な教訓は、自由の優越ということです。自由の優越を承認する思想を、とりあえず、自由主義と呼んでおきましょう。我々の思想的な課題は、平等な自由を確保しうる社会システムは、どのような条件を備えていなくてはならないか、を探求することにあるわけです。  しかし、冷戦が終結した一九八九年が自由主義の勝利の年であると同時に、その抜き差しならぬ困難の発端の年だということも銘記しなくてはなりません。自由主義は、チャンピオンになった瞬間に、ちょっとやそっとでは勝てそうもない有力なチャレンジャーを迎えたんです。  なかでも特に強そうなチャレンジャーが、環境問題、エコロジー主義です。環境問題が、今のように、国際政治を動かすような課題になったのは、冷戦の終結期からです。しかも、少しばかり象徴的なことに、環境問題を国際政治の俎上にのせたのは、崩壊直前のソ連だったんです。エコロジーは、自由と同じくらい重大な価値を提起しています。しかし、エコロジーの原理と自由主義の間には、ちょっと解けそうにもないような、深刻な矛盾があるんです。  自由主義というのは、簡単に言えば、他人の自由を侵さないかぎり何をしてもいい、という原理ですね。しかし、他人の自由を侵さないというのはどういうことかということです。環境問題というのは、自由との関係でいうと、この「他人の自由を侵さない行為の範囲」が空になってしまうということです。たとえば、二酸化炭素を排出しない限りなにをしてもよい、と言われた場合を想定してみればよい。それは、なにをしてもいけない、と言われたのと同じことです。  ですから、極論すれば、エコロジーの理念と自由主義というのは、完全に矛盾してしまうんです。なぜ、環境問題の解決という課題を設定したときには、自由な行為の範囲が空になってしまうのか。それは、環境が、つまり地球が、有限だからです。有限な空間のもとでは、厳密には、他人の自由を侵害しない範囲というものがなくなってしまうんです。  それならば、環境の有限性ということの自覚が、今日、急に、浮上してきたのはなぜでしょうか。このことを考えると、エコロジーの原理というのが、伝統的な自由主義に対立しているだけではなくて、実は、ある意味で、強化された自由主義でもあることがわかります。こういうことです。通常の自由主義は、自由の権利を享受する主体として、現在の生きている人間だけを考える。けれども、最小限の自由に関して——つまり生きるという自由(生存権)に関して——、その適用範囲を、現在の人間だけではなくて、共時的には、ほかの生物や自然物の一般にまで拡張する、通時的には、未来の世代にも拡張する、そうすると、エコロジーの理念が出てくるんです。要するに、それは、自由の適用範囲を時間的にも空間的にも無限化しているわけです。その無限性との関係で見ると、現実の環境は、必然的に有限なものとして映らざるをえない。  ここから、二つのことを言いたい。第一に、このように考えると、自由主義が遭遇している困難というのは、自由主義そのものに内在する困難だということです。自由主義の外に敵がいるわけではない。第二に、エコロジーの理念が自由な主体の範囲の無限化から帰結する思想であるとすれば、それは、実は、〈資本主義〉が推進する、経験可能領域——規範の適用範囲——の普遍化を、先取り的に想定上徹底させ、その極点をとったときに現れるような問題意識だと言えます。エコロジー主義は、しばしば、資本主義を敵視しますが、それは、ある意味で、最も徹底した〈資本主義〉であり、〈資本主義〉が十分に熟成したときにしか出てこない思想だと言えます。それは、現実の〈資本主義〉を超える、より徹底した〈資本主義〉です。 †選択できないものの選択[#「選択できないものの選択」はゴシック体]  自由の理念がぶつかっているこの困難を——あるいは自由がその内部に抱え込んでしまったこの困難を——どうやって克服したらよいか。今日は、この問題にきっちりとした解答を与えることはできません。ただ、こういうことだけは言えます。この問題は、自由ということそのものについてのアイディアを抜本的に捉え直すことによってのみ、解消しうるだろう、と。  だから、最後に、少しだけ、原理的なところまでさかのぼって自由ということを考えてみたいと思うんです。そもそも、自由であるとはどういうことか。それは、選択できるということです。しかし、選択とは、実は、とても不思議な現象なんです。  行為の本質は、選択であるということです。しかし、我々は、いつ、その行為を選択しているのでしょうか。論理的には、選択は、行為の実現に先立っていなくてはならない。しかし、行為をまさに選択して遂行しようとすれば、たちまち行為は滞ってしまいます。たとえば、「文字を書く」という行為を意識し、それを選択してから遂行しようとすれば、文字は書けなくなる。僕らは、いつのまにかに選択している、としか言いようがないのです。論理的には先行しているはずの選択は、常に、意識の水準では、行為の実現に対して遅れているのです。だから、選択は、常に、既に終わったものとしてのみ意識される。この選択の、常に「既に終わっている」という時間のモードを、シェリングは、「先験的過去」と呼んでいます。  だから、自由な行為というのは、いわば、決して現在であったことはない過去において、選択されている、ということになるわけです。こうした、先験的な過去における選択ということの最も極端な形態は、次のようなケースです。それは、カントが指摘した、ある矛盾した倫理的推論ということと関係しています。  ときに、根っから悪いやつというのに会うことがあります。非常に性格が悪くて、死ななきゃ治らないんじゃないの、と思うことがある。あまりに悪いので、その人は、いわば生まれつき悪い、先天的に悪いのだ、という印象を与える。ところで倫理的に責任を問えるのは、選択できることだけです。たとえば、僕がここを歩いていたら運悪く棚からぼた餅が落ちてきて僕にぶつかったとき、ぼた餅を責めるわけにいかないです。置いた人を責めることはできるかもしれないけれども、ぼた餅そのものを責めることはできない。ぼた餅には選択することができなくて、単なる物理法則に従って落っこちてきているだけだから、「お前、もうちょっと我慢してろ」とか言うことはできないです。ところで、ここで、重要なことは、先の先天的に悪い性格の者に対して、僕らは、なお、悪いと考えること、その性格の悪さに対して当人に倫理的に責任がある、と感ずるということです。カントは、ここに、不思議な「誤った」倫理的推論がある、という。先天的な性格だと感ずる以上は、それは当人には、選択できなかったはずではないか。それに対して倫理的に悪いという感覚をもつのはどうしてか。  だから、我々は、あたかもこんなふうに考えているわけです。本来は、選択できない性格を、その人は、選択している。いつ選択しているのか。その性格は、先天的なものだから、いわば、その人が生まれ落ちる前です。つまり、先験的過去において、性格そのものが選択され、それによって、その人の人生の運命が全体として規定されている、そういうことになるわけです。  自由がいかにして可能かということを問うことは、この先験的な過去における選択とは何か、ということを問うことです。 †予言の呪縛[#「予言の呪縛」はゴシック体]  ここで、少し唐突ですが、柄谷行人の「マクベス論」を思い出してほしいんです。僕は、わざと最初に柄谷の行人「マクベス論」をわりあいていねいに紹介しておいたんです。それには、ちょっと意図があったんです。重要なのは、マクベスには予言というものがかかわっているということなんです。皆さんご存じのように、マクベスは王様を殺してしまうわけです。どうしてそうなるかというと、奥さんが猛烈な奥さんだったとか、いろいろな理由があるんですけれども、その前にマクベスは魔女から予言を授かっていたんです。その予言の線にそってやっているわけです。つまり、予言が当たったわけです。  この予言という問題について、僕はちょっと話しておきたいんです。なぜ、予言について考えるかというと、予言は、まさに、先験的な選択だからです。ある行為や宿命が、あらかじめ予言されている。それは、まさに、先験的な選択というべきものになっています。  なぜ予言は当たるのだろうか。悲劇というのは、予言が当たってしまうところにあるんです。たとえば、一番有名なのは『オイディプス王』ですね。オイディプス王もやっぱりいろいろなことを予言される。それを避けようとするけれども、結局はそのとおりにやってしまうわけです。それが悲劇というものになります。なぜオイディプスについての予言は当たったのか。  考察の手がかりに、柄谷からひとつだけ引用します。柄谷の初期の漱石論の中の『道草』について書いた部分で、突然オイディプスに触れているんです。それはどういう場面かというと、『道草』の冒頭の部分ですね。主人公の健三が散歩の途中で「帽子を被らない男」と出会う。そのときに非常に強い不安な感情に襲われる。どうして帽子を被らない男と出会ったときに、非常に強い不安感を覚えたのか。それは柄谷の読解によれば、その帽子を被らない男が沈黙したままでありながら、まさにその存在そのものによって、健三に対して「お前は何者なのか」という問いを発しているからだと、そういうふうに読むんです。柄谷はこう書いています。「ここで健三をとらえた不安は、知識人としての不安ではなくて、裸形の人間としての不安である。『帽子を被らない男』は、彼に『お前はどこから来たのか』という問いを不意に迫りはじめるのだ。ここで私が思い浮かべるのは、ソポクレスの劇『オイディプス王』において現れるオイディプスを不安にさせる予言者である。オイディプスはその予言者を黙殺し、また彼の出生の秘密にかかわった証人たちを黙殺することができたであろう。つまり、その予言を無視することもできたであろう。あるいは、だから逆に言うと、彼に『おれの素性を底の底まで探ってみせるぞ』という恐るべき意志がなければ、事は明るみに出なかったであろう。健三にしても同様である」。  つまり、予言は実はただ当たるわけではないんです。逆に他者に予言されることによって、予言された自己が、その予言を引き受けてしまう、というメカニズムがあるんです。予言されることによって自分がそれを引き受けてしまう、そういう構造になるんです。だから、予言が当たっているというよりも、予言のとおりに人はやってしまうんです。では、なぜ、他者の予言を引き受けてしまうのか。それはむずかしい問題です。ただ、次のことだけは、示唆しておきます。先に柄谷の「マクベス論」の趣旨を紹介しながら、自己の内側と外側、自己と他者というのは、実は、画然とは区別できないのだ、と論じました。言い換えれば、自己は、ある意味で、すでに他者なんです。だから、他者の予言は、自己のものになりうるわけです。健三が、「帽子を被らない男」とすれ違って不安を覚えるのは、その男が、その存在によって、健三自身の他者性を触発するからです。その他者の存在によって、まさに、私が何であるかという問い、「お前はどこから来たのか」という問いが始動してしまうのは、自己の自己たるゆえんが、まさにその他者の存在のほうにこそあるからではないでしょうか。  暫定的な結論は、こうです。先験的な選択とは、この予言と同じものではないか、と。もう少していねいに言えば、他者の予言を自己が己に固有のものとして引き受けてしまうメカニズムではないか。先験的な選択は、既に終わってしまった選択、選択しえないものの選択、という構成をとっているのでした。誰にとって、選択しえないのか、誰にとって、既に終わっているのか。もちろん、自己にとって、です。では、それなのに、なぜ選択できるのか。本来、選択しているのが、他者だからです。他者が、いわば「予言」という形式で選択しているわけです。この他者の選択、自己の行為や宿命についての他者の予言を、自己が自身に固有化し、内面化する。すると、自己が、既に終わったものとして選択する、選択しえないものを選択する、という不思議な構造ができあがるわけです。  ただ、誰の予言も当たるというわけではない。どの他者の予言も当たるというわけではない。つまり、どの他者の予言も人を呪縛することができるわけではないのです。予言者は、人を呪縛しうるような位格にある他者でなくてはならない。要するに、それは、超越的な他者でなくてはならないんです。  自由は、先験的な選択を前提にしてのみ可能です。ということは、予言する超越的な他者を確保しておくということ、これこそが、人間にとって、自由が可能であるための決定的な条件なのです。 †過去の厚み[#「過去の厚み」はゴシック体]  さて、ここで、元の話に戻りたいんです。今のような回り道を通ってくれば、今僕らが抱えている困難というのはどこにあるかということが、わかってきます。先に、オウムやハイデッガーに触れながら、僕は言いました。そこでは、超越性が否定されているのだ、と。つまり、僕は言いたいんです。僕らの困難というのは、自由の可能条件ともなる、あの予言する超越的な他者の位置が空虚だということなんです。この我々を、自由な主体として、あるいは責任の主体としてつくり上げる、比喩的に言えば、我々の人生を予言する他者が不在なんです。これを絶望的に埋めようとすれば、超越性を否定するような超越性、先ほど言った俗物としての超越性ということになる。このような絶望的な埋め方を拒否すれば、この超越的な位置は、空席のままです。ここに、僕らの抱えている最大の困難があると思うんです。  そのことを象徴しているのが、一番最初に話した『麗しき日々』という小説です。この中で、この超越的な他者の位置を占めるのは言うまでもなく父です。いわばアメリカにかわって一身に超越的な他者の位置を担おうとした父、特に小説家というスタイルに代表される父ですね。ところが、この父が、妻や子によって承認されていない。先ほどの柄谷からの引用にも書いてあったように、仮に予言者が予言してもオイディプスのほうで探究する意志がなければ予言は当たらないんです。つまり、オイディプスのほうで予言を引き受けてしまうというメカニズムがあるわけです。そのことによって予言者は超越的な予言者たりうるわけです。ところが、この小説で問題になっているのは、父が受け入れられていない。子によっても妻によっても受け入れられていない。アメリカの後を埋めたはずの父が、今九〇年代の中盤に来て、受け入れられていない。これはもちろん比喩です。具体的なお父さんということよりも、父によって象徴される社会的な何かですけれど、それが受け入れられていない。そういう構造なんです。  一番最初に引用した箇所を思い出してほしいんです。妻は、いつも夫を信頼して散歩をしている。ところが、あるとき突然夫の話を聞く気がなくなった。その瞬間から彼女の健忘症が始まるわけです。さて、なぜこのときに健忘症が始まるのか。なぜ夫=父が拒否された瞬間に健忘症が始まるのか。そのことを最後に言って終わりにしたいと思います。  実は、予言する、超越的な他者の存在ということは、過去や歴史の存在の条件でもあるのです。第一に、それは、過去を構成するのです。他者の予言の自己への固有化によって、先験的な選択が作り出されると話しました。先験的な選択というのは、常に過去であるような選択です。過去というものは、別に、客観的な事実としてあるわけではない。過去は、定義上、「もうない」のです。だから、過去という実在、過去というリアリティは、作られなくてはならないんです。現在へと流れ込んでくる過去という時間の厚みは、常に過去であるような次元を投射することとの相関によってこそ生み出されるのです。任意の現在に対して常に過去であるような次元があって、はじめて、現在までの時間的な厚みが構成されるわけです。その常に過去であるような次元こそ、まさに、先験的な選択の位置づけられる場所にほかなりません。だから、先験的な選択を可能にする、超越的な他者を失えば、我々は、過去という時間の厚みを失ってしまう。要するに、現在にまで至る過去の蓄積の感覚が消えてしまうのです。言うまでもなく、それは、記憶を不可能なものにする。  第二に、予言する他者の喪失は、過去の一般だけではなく、歴史という過去に対する態度の崩壊を招きます。予言するということは、現在にありながら、現在の出来事が完了してしまった後からの視点にたって、出来事を眺めるということです。つまり、予言というのは、事後の視点を事前において先取りすることです。一見、予言と歴史とは逆のことだと思うかもしれませんが、そうではない。両者は、同じスタイルを共有しています。歴史というのは、予言と同じスタイルを、過去のほうにスライドさせるだけだからです。つまり、現在の出来事が、事後の、いわば未来完了の視点との相関において、意味をもちうる、ということを前提にしておかないと、歴史は書けないのです。というのも、歴史を記すということは、その過去の出来事を、その過去においては不在であるはずの、未来完了の視点との相関において記述し、その記述にみあったような出来事が、その過去において——正確に言えば、その過去が現在であった時点で——既に存在している、と見なすことだからです。たとえば、ロベスピエールはフランス革命に加担した、と記述する。しかし、「フランス革命」という一連の出来事は、あとから見るからこそ、現れるのです。渦中にあった人は、本当は、フランス革命をやっている、などと思いません。つまり、事後において現れるものが、事前において既にあったかのように記すこと、これが歴史です。これは、予言というものを構成する態度と同じものです。だから、予言する超越性に対応する要素を失ったとき、歴史のような形で記憶を蓄積することができなくなるわけです。『麗しき日々』の妻子の記憶喪失は、こうしたことを表現する寓意になっているわけです。  だから、我々にとっては、この超越的な他者の空虚に、どのように対処するのか、ということが、緊要な実践的・思想的課題となるはずです。オウムにしても、ナチスにしても、あるいは、天皇制ファシズムにしても、この空虚を、アクロバティックな仕方で埋める試みだったと解釈することできます。しかし、我々は、このやり方をも回避しなくてはならないことを、今では知っている。我々は空虚を回避するのではなくて、空虚をまともに引き受けなくてはならないのでしょう。それは、どのようにしてか。その方法は、自由な社会をいかにして実現するかという問題にも連動しているのです。 [#改ページ] [#小見出し]後記  私は、一九九七年に、西武池袋店付属の「リブロフォーラム」において、三回連続で、「戦後思想」を主題とした講演を行った。本書は、この講演を、加筆修正したものである。各章が、それぞれの講演に対応している。第一回講演が、四月五日、第二回講演が、八月九日、そして第三回講演が、十二月六日に行われた。それぞれの講演の独立性は高く、一回だけでも、内容が完結するように努めたつもりである。  もちろん、加筆修正によって、本書の内容は、講演とは異なったものになっている。特に、第三章は、実際の講演の内容をかなり圧縮せざるをえなかった。が、しかし、基本的なアイデアや語り方については、できるだけ、講演そのものを活かした。というのも、講演でなかったならば、言わなかったような内容が、含まれており、それらを残しておきたかったからである。  講演というものの性格上、論理は十分に緻密であるとは言えないし、論証も不完全である。最初から論文として文字に書かれたものであれば、もっと厳密に、もっと周到に構成したであろう。だが、講演であればこそできたいくぶん極端な単純化やいささか乱暴な断言もまた、ときには意味があるだろう。  講演のセッティングに関しては、株式会社リブロの水谷幹夫さんに特にお世話になった。またこれを著書にするに際しては、『虚構の時代の果て』(ちくま新書)のときと同様に、筑摩書房の山本克俊さんが、編集の任にあたってくださった。お二人に、心より感謝したい。 [#2字下げ]六月二十六日 [#地付き]大澤真幸  大澤真幸(おおさわ・まさち) 一九五八年長野県生まれ。一九八七年東京大学大学院社会学研究科博士課程終了。社会学専攻。社会学博士。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授。著書に、『行為の代数学』、『身体の比較社会学I ・II』、『資本主義のパラドックス ——楕円幻想』、『意味と他者性』、『電子メディア論』、『性愛と資本主義』、『恋愛の不可能性について』、『虚構の時代の果て ——オウムと世界最終戦争』(ちくま新書)などがある。 本作品は一九九八年七月、ちくま新書として刊行された。